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無名夜行 - 三十夜話/24:月虹

 満月が夜空を明るく照らしている。
 そして――Xは、橋の上にいた。
 スピーカーから聞こえてくるのは水が絶えず流れ落ちる音。橋から見渡せるのは、大きな滝だ。そして滝が生み出す細かな水滴が、この「橋」を生み出しているのかもしれない、と思う。
 そうだ、Xが立っているのは、橋といえども天にかかる橋。つまり、虹だった。淡い七色の橋は、うっすらと透けて見えるにもかかわらず、確かにXの体を支えていた。Xは恐る恐るといった様子で虹の橋を渡っていく。それは、さながら、はるかに広がる夜空を渡っているかのようでもあった。
 歩いていくうちに、Xの視界に、橋の縁に腰掛ける何者かを見つける。近づいてみれば、つばの広い麦藁帽子を目深に被った男であるらしいことがわかる。
「こんばんは」
 Xはその男の横に立って、声をかける。滝の轟音にかき消されるかと思ったが、どうやら相手はXの声に気づいたらしく、つい、と視線を上げる。帽子のつばの下から、ぎょろりとした目が覗く。
 ああ、と。わずか軋むような音が、Xの聴覚と繋がるスピーカーから漏れる。それが、男の応えであることに一拍遅れて気づいた。
 Xは男を見て、そして男の手にしているものに視線を向けて、ぽつりと言う。
「釣れますか?」
 男が握っているのは、長く伸びた釣竿だった。釣り糸は、はるか下の滝壺に向けられていた。果たして、その糸と針が届いているのかどうかも、この高さからでは判別できなかったけれど。
 男はXの言葉に軽く首を振る。
「いいや、全然だね。あんたも釣りに来たのかい?」
「いえ、私は、……旅の途中に、偶然、立ち寄っただけです」
 Xは何と答えようか、一瞬迷ったに違いなかった。よく「旅人」と呼称されるが、旅というにはあまりにも短すぎる滞在。それこそ『異界』の一端を垣間見る程度の『潜航』。それを果たしてどう表現すべきなのか、私にもわからないままでいる。
 ともあれ、Xの言葉を受け止めた男は、麦藁帽子の作る影の下からじろじろXの姿を眺め回して、それから言う。
「旅人にしちゃ妙な格好だな」
「よく言われます」
 Xの姿は『潜航』の時に着ている『こちら側』の服装に左右されることがほとんどで、つまりは旅人には到底見えない軽装だ。それが『異界』によって違和感に取られるときもあれば、特に問題なく受け入れられることもあるのが、興味深いところでもあった。
 Xは男から一歩ほど離れた場所に腰掛ける。男の傍らには、おそらく獲物を入れるための篭が置かれていたが、男が「全然だね」と言うとおり、その中身は空っぽだった。
「ここでは、何が釣れるんですか」
「この橋が出る満月の夜にしか、釣れない魚がいるのさ」
「それは……、どんな魚なのです?」
 Xの問いに、男は片手で麦藁帽子のつばを下げ、視線を竿の方へ向ける。竿は動く様子を見せない。
「月虹の足元からしか生まれない、それこそ夜空にかかる虹のような色をした魚だという。俺も実物を見たことはないが、本でその存在を知ってな。それ以来ずっと探し続けて……、ここに辿りついたってわけだ」
 夜空にかかる、虹。この『異界』にあっても、ほんのひと時だけしか存在しないのであろう、橋の上で。釣り糸を垂れる男は肩を竦めてみせる。
「実際に見せてやれりゃよかったんだが、この通り、今日も無理そう、」
 その時、竿がぴくりと動いた。男がはっとした様子で、竿を強く握り締める。そして、竿についた糸車を回して糸を引き上げようとする、が、竿は大きくしなり、その糸の先にいるものを引き上げることは難しそうだった。
 手伝ってくれ、という男の言葉に、Xは立ち上がって男の手に己の手を重ねる。一歩間違えば橋から落ちてしまいそうなほどに強い引きだ。Xは男の体を支えつつ、男が糸を引き上げるのを待つ。
 すると。
 男の竿が跳ね上がった。細い糸が煌いて――その糸の先に、巨大な魚が躍っている。その鱗は月光を受けて虹のように輝き、大きく広がった半透明の鰭が空を切る。その威容は、魚というよりももはや完全に別種の生物――もしくは、生物ですらない作り物か何かに見えた。
 その時、突如として、糸が、切れた。
「あっ」
 と声を漏らしたのは、Xだったかそれとも男の方だったか。
 空に躍った虹の魚は、そのまま橋の下へと落ちていき……、見えなくなった。Xはしばらくそちらを見つめていたが、やがて顔を上げて男を見る。男もまた、呆然という言葉が似合う表情で橋の下を見ていたが、ふ、とXに顔を向けて、それから。
「ほんと、上手くいかないもんだ」
 と、言って、声を上げて笑ったのだった。
「……諦めますか?」
「まさか」
 Xの問いに男は竿を振って立ち上がる。結局空のままになってしまった篭を手にして、それでもどこか満足げに言うのだ。
「むしろやる気になったさ。確かにいる、ってことはわかったんだからな」
 Xがどういう表情を浮かべているのか、Xの視界しか見えない私には判断できないが、もしかすると……、笑い返したのかも、しれなかった。
「今度こそ、釣れるといいですね」
 釣ってみせるさ、と。返す男は眩しそうに月明かりの下、目を細めていた。

あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。