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無名夜行 - 三十夜話/28:隙間

 Xの聴覚と繋がったスピーカーから聞こえてくるのは、荒い息遣い。
 それがX自身の呼吸音であることは、明らかだった。
 今回の『異界』は石造りの建物の中だった。迷宮、と言うべきだろうか。窓はないが、不思議と明かりをつけなくともぼんやりと視界が通る薄闇の中、Xは探索を開始した、のだが。
 今、Xは壁と壁の隙間、かろうじて人ひとりが収まる空間に身を隠している。
 すっかり荒くなってしまった呼吸を何とか抑えようとしているのだろうが、一度上がってしまった呼吸はなかなか収まらない。これには、見ているだけの私も呼吸が苦しくなってくるような錯覚に陥る。
 ディスプレイに映るのは石壁の隙間から見える、目の前の通路のみ。酷く狭いXの視界を見ながら、このまま何事もなければよい、と思う。『異界』において想定外のことが起こるのは当然といえば当然だが、それでも円滑な観測を行うためには、Xに負担のかかる出来事は少ないほうがいい。
 ――だが。
 スピーカーから聞こえてくる音に、今度は違う音が混ざってくる。無数の何かが石造りの床を引っかくような音が……、遠くから、聞こえてくるのだ。
「……来た」
 呼吸の合間に、Xが呟いたのが私にも聞こえた。
 音はどんどんこちらに――Xのいる方に近づいてくる。Xは無理やりに呼吸を抑えこんで、隙間からかろうじて見える通路を凝視している。
 やがて、通路に現れたそれを何と形容すべきだろうか。頭全体を覆う鉄仮面に、鋼の鎧に覆われた体、だらりと下げられた手に握られた剣。そこだけを見れば騎士を思わせる姿、と言えばいいだろうか。ただし、それは上半身の話であり。下半身は……鎧と同じ質感を持つ、巨大な百足のよう。無数の金属質の脚が、石の床の上をせわしなく動き回っているのであった。
 先ほどまで、Xはこの奇怪な存在に追われていたのだった。無数に折れ曲がった道を駆け、時に追いつかれて手にした剣を突き立てられそうになりながらも、何とか相手の視界の外に逃れ、そしてこの隙間に隠れたのだ。
 百足の騎士はゆっくりと、ゆっくりと、Xの前を通過していく。鎧兜が過ぎ去り、その後に節を持つ長い長い胴が続く。そして、最後の一節が過ぎ去ったところで、Xはそろそろと呼吸を再開する。
 異様な足音が徐々に遠ざかっていくのを、スピーカーから聞こえてくる音で察する。ひとまずの危機は去った、と考えてよいのだろうか。
 Xは恐る恐る、壁の隙間から通路に顔を出す。X以外の存在の気配はなく、ただ、ぼんやりと輝く通路が伸びている。Xはゆっくりと一歩を踏み出す。サンダル履きの足元が石畳を踏む音が、わずかに耳に届く。
 すると、Xの視界の先、折れ曲がった通路の先から何かがこちらを覗きこんでいるのが見えた。
 それは、無数の細い触手を纏った、巨大な目玉を思わせる化物で――。
 Xはわずかに息を呑んで、それとは逆の方向に駆け出したのであった。
 かくして、名も知らぬ迷宮の探索は、Xが諦めない限り続いてゆくのだ。

あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。