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おとなになること、変わること 〜ナルニアに行けなくなったスーザンを思って

わたしは児童文学や絵本が好きだ。トップ画はスウェーデンの作家・アストリッド・リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』の表紙だが、これはわたしの大好きな『やかまし村シリーズ』の1冊目だ。7歳の女の子、リーサの視点で、3軒からなる小さなやかまし村の日常が生き生きと描かれている。スウェーデンの暮らしの様子(しかも1947年刊行なので時代的にも隔たりがある)は日本のわたしの生活とはまったく異なっていたが、子どもたちの心の動きはとてもよく理解できて、すんなりとなじんだ。リーサの7歳のお誕生日のお話はとっても羨ましかったっけ。このシリーズには小さな頃に読んだ時から色あせることのない「わたしの安心する何か」が満ちている。

ほかにも好きな本を徒然なるままに挙げると、C・S・ルイス『ナルニア国ものがたり』、ミヒャエル・エンデ『モモ』、『アーサー・ランサム全集』、エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』・『点子ちゃんとアントン』、トーベ・ヤンソン『ムーミンシリーズ』、マージェリー・シャープ『ミス・ビアンカシリーズ』、J・R・R・トールキン『指輪物語』、アルフ・プリョイセン『小さな〇〇シリーズ』、エリナー・ファージョン『年とったばあやのお話かご』、アリータ・リチャードソン『メイベルおばあちゃんシリーズ』、ジュール・ベルヌ『2年間の休暇』、、、。今、ここに名前を連ねるだけで、あたたかな気持ちになる。

反面、わたしは「おとなの」文学に弱い。ここでの「おとなの」というのはどう定義づけたものかまだ定かではないが、「容赦のない」としておく。暴力的なもの、不条理なこと、性描写、怒りや憤りが満ちた作品にとことん弱い。普段から遠ざけている。たまたま手にしてしまった時は、息を詰めるようにしてなんとか読もうとするのだが、たいていは挫折するし、読み終えたとしてもその後の余韻を処理できずに寝込む。考え過ぎて寝込むというのではなく、強制思考停止を行う。

わたしは本を読むのは好きだが、安心できる毛布のような本を何度も何度も繰り返し読むような読書経験をしてきた。

前置きが長くなった。ここでやっと表題の「おとなになること、変わること」が出てくる。わたしは今34歳なのだが、最近まで「おとな」になることに抗ってきたような気がする。わたしはおとなになったら失われると言われるものごとを失うのがとても怖かった。先にあげた児童文学を読んでコロコロと無邪気に笑っていた頃から「変わらないでいる」ことが大事で、変わっていくことをとても恐れていた。

わたしの変わることに対する恐れをよくあらわしているところが、『ナルニア国ものがたり』にある。

ものがたりには複数の子どもたちが出てくるのだが、シリーズの最終盤、そのうちの1人がナルニアに戻れなくなる(いや、戻る戻らないの選択肢すら失うというべきか)。それはスーザンという第1巻から登場していた4人兄弟姉妹の上の女の子なのだが、かつて自分がナルニア国という異世界へわたり、かけがえのない経験をし、多くの友を得て楽しく暮らしたことを、「あったこと」(自分の経験)として認識できなくなるのだ。その部分を引用すると、次のようになる。

「わが妹スーザンは、」とピーターは、かんたんに、重々しくこたえました。「もはやナルニアの友ではありません。」
「そうですよ。」とユースチス。「ナルニアの話をしたり、何かナルニアに関係のあることをしたりしようと思ってスーザンをよんでも、あのひとはただこういうだけです。『あら、なんてすばらしい記憶をおもちなんでしょう。ほんとに、わたしたちが子どものころによく遊んだおかしな遊びことを、まだおぼえていらっしゃるなんて、おどろきましたわ。』って。」
「ああ、スーザンのことね!」とジル。「あのひとはいま、ナイロンとか口紅とか、パーティーとかのほかは興味ないんです。そしていつだって、おとなになることに夢中で、そりゃたいへんでしたわ。」
「おとなになるってね、まったく。」とポリー姫がいいました。「スーザンには、ほんとうにおとなになってもらいたいものね。あのひとは、いまの年ぐらいに早くなりたがって、学校に通っているころを台なしにしてしまったし、また、今の年のままでいたくて、これから先の一生を台なしにしてしまうでしょうよ。あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年頃になりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」
「まあ、その話は今はよしましょう。」とピーター。「やあ!すてきなくだもののなっている木がありますね。ひとつ味をみましょうよ。」

C・S・ルイス作 瀬田貞二訳『さいごの戦い ナルニア国ものがたり7』より

わたしは、実は『さいごの戦い』の細部をあまり覚えていないのだが、上述の部分については強烈に記憶に刻みこまれている。当時小学生だったわたしは、スーザンにはなりたくない、大きくなってもナルニアにいける人でありたい、と強く願った。「ナイロン(おしゃれな服)とか口紅とか、パーティーとかのほかは興味ない」女の子になんてなってたまるかと思った。

中学校くらいまではこれでいけたのだけど。

高校生になってから、つい最近までの約20年。「おとなにならない」を維持しようとするのはたいへんだった。おのずからおとなになっていくというのではなく、「おとなにならない」をがんばって維持しようとしているから、いろんなところで不協和音が生まれるし、社会を理解するのが遅れた。

世の中は複雑で、子どものわたしが想定していたより悪い人もたくさんいたし、理解できない人もたくさんいた。わたしはとてもあまちゃんで幸せな子ども時代を送っていたということ、苦労して苦労して早くおとなになろうともがいた人たちがいることを知った。わたしの想像が及ばないほどずっっとヒリヒリしたところで生きている人たちがいて、わたしの「おとなにならない」決意なんて、その人たちから見たらてんで意味のないバカげたことだと言えることも知った。長らく性的なことを言語化することを無意識的に嫌悪していて(意識的じゃないところが怖い)、人間の3大欲求が食欲・睡眠欲・性欲だとしたら、三分の一をほとんど理解できない状況を続けながら人づき合いしていたということも自覚した。

この間、他の人を否定する、自分と相容れない人を見なかったことにする、ということをもししていたら楽だったのかもしれない。けれど、「おとなにならない」と同時に、「良い子」でもいたくて、「受け入れる」、「そばにいる」ことのできる人であろうとしていたため、ギャップにとても苦しんだ。おそらく、わたしの双極性障害Ⅱ型という病気は、ダブルバインドに見舞われることが多々あったことに起因していると思う。

最近。ほんとうにごく最近。おとなになろう、おとなになったってえぇじゃないかと思うようになった。ナルニアには行けないだろう。でも「でなければならない」、「変わることは怖いことだ」という考え方では、もう生きていくことがむずかしい。おのずから変わっていくのが人間だ、生き物ってそういうものだと思うようになった。

そんなわたしが、今、よすがとしている言葉がある。
知人が紹介してくれた、童話作家のあまんきみこさんの言葉だ。

おとなになるというのは木が年輪を重ねていくようなことだ、とあまんさんはおっしゃったそうだ。つまり、子どもの頃の自分は、年輪のどまんなかに今も確かにある、と。

覆われて一見わからなくても、芯に持ちながらおおきくなっていったらいい。安心してぐいぐい変わっていってよい、芯には残り続けるものだから。

子どもの頃の自分が芯にあり続けることを嫌悪する人もいるのだろうと思うと、この考え方がよいのかはわからなくなる。けれど、それもひっくるめて、ぐいぐい変わっていってよい、ということなのかなと考える。どれだけ愛しい自分も、嫌悪する自分も、今の自分と完全に切り離すことはできない。だからこそ、変わっていく自分を楽しめばよい。すべての人に受け入れられる考え方ではないかもしれないけれど、わたしはこの考え方をとろうと思う。

34歳のわたし。子どもっぽい頑固さで、変わることにへどもどして、融通がきかなく、世の中の複雑さにかんたんに傷つき、無知で嫌になる。この性質は30年以上も続けてきたものだから容易には抜けないけれど、これからぐんぐん変わりたいと思う。変わってやろうと思う。どうせなら、おおきな、いろんな生き物が憩うことのできる木になりたいと思う。また無茶な目標を立ててしまったかしら。
なににせよ、変わりたい。子どもの心を芯に持って。強くそう思う。

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