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風の谷から旅立つことはできるのか――シン・ファンタジーに向けて

この記事でやろうとしていること

空想<ファンタジー>に魅せられてお花畑脳<ファンタジー脳>になった少年が、信じてきた幻想に裏切られて自ら物語を完成させると宣い、それから12年間「自分の見たいファンタジー」が分からず苦しむ。
でも、その苦しみの果てに未来があると信じて、ファンタジー新説へ至る道筋を何とかして立てようと足掻く様を文字にしてみたら考えがまとまるだろうか? と淡い期待を寄せて記事を書いてみた。

ファンタジーが好き。でも物足りない。

私はファンタジーが大好きだ。小さい頃に父がドラゴンクエスト5をプレイしている後ろでおもちゃの剣を振り回している頃からずっと、コントローラを握れば勇者になれるという魅力に憑りつかれている。
今ではゲームだけではなくアニメ・漫画・小説・映画、なんでも漁る。今のお気に入りはゼノブレイドシリーズで、比較的最近だとゼノブレイド3を購入して遊んだ。

だが、いつもこう思うのだ――なんか物足りない。
どれにも既視感がある。少年と少女が出会って、世界を旅して、悪を挫く。すると世界が救われる。それらは全て自分の望んだものなのに、なぜか満足できない。
子どもの頃に一番ドハマりした作品である『エレメンタルジェレイド』の続きを見れない。人生の転機となるほどに期待し絶望した『ギルティクラウン』で知りたかった答えが分からない。

そうして理想のファンタジーを追い求めるはめになった亡霊は、何を勘違いしたのか「俺がファンタジーだ」と言いオリジナル小説を書き始める。
あれから12年。納得のいく物語を書くことはできず、何なら最後まで書き上げて完結させた作品は一作しかない。

苦しい。本当に苦しい。
それでもなお、懲りずにずっと小説<ファンタジー>について考えている。

剣と魔法のファンタジーが無責任にならないために――ゼノブレイド2への考察と期待

ゼノブレイド2発表時、物凄く興奮した。
人生で一番楽しいと自信を持って言える「ゼノブレイド」の続編。空の世界が舞台で、人間の少年と異種族の少女が協力して楽園を目指すというストーリーラインは、かつてエレメンタルジェレイドに夢見たその続きが見られるんじゃないかと――それがゼノブレイド品質で楽しめるのだから、期待しかない。

結論から言う。その期待は裏切られた。

ゼノブレイド2というゲームは楽しかった。アルストの冒険はとてもワクワクしたし、ゼノブレイドシリーズで一番好きなキャラは今でもホムヒカだ。
でも、求めている結末ではなかった。

この物語はすべて、かつての名作の焼き直しでしかなかったからだ。
物語のコンセプトは『天空の城ラピュタ』、世界の成り立ちが最後の最後で明かされる展開は漫画版『風の谷のナウシカ』と同じだ。
ラピュタでは飛行機乗りの父に憧れながらも縛られていたパズーがシータを助けるためにそれらを捨てて大人になっていくという構成になっていたが、レックス自身の成長はそこまで描かれていないように思う。
ナウシカでは腐海は地球再生プロジェクトの一環だったが、巨神獣とブレイドがまんま同じだと知った時は非常にがっかりした。
そして何よりショックだったのが――理由もなくホムラとヒカリが蘇ったことだ。この理由というのは作中設定による理由づけのことではなく、脚本上の理由という意味で。ジブリの教科書に宮崎駿の言葉として記されていた「ナウシカが宗教画になってしまった」と同じ状態で、監督自身が納得いかなかった理由にとても共感できた。

もうすぐ平成が終わるというほど時を経ても、まだ日本におけるファンタジーの金字塔を越えられない。
それだけ宮崎駿監督が偉大だということは分かる。でも、せっかく自分の言葉でファンタジーを語るのなら、違った答えを見てみたい。

例えば、神からアルスト再生プロジェクトを継承して、アルストの住民全員で世界を再生していく。その為にはトリニティプロセッサーすべての機能が必要で、だからこそ末法思想に侵された天の聖杯を救わなければならない。
それには多大な困難が伴う。大切なものを奪われて赦せない人もいるだろう。今の地位を捨てられず世界の停滞を望む人もいるだろう。それでもアルストを本当の楽園にするために――消えたいとさえ願った最愛の人が生きていてもいい世界にするために奔走する。それはラピュタでもナウシカでも描かれていない、レックスにしか出来ないことだ。

大切な人を救うために世界を救う。それは自分たちの住む場所を自分たちで守るという責任ある人の生き様に違いないし、みんなを背負うと豪語し――新たなる未来では本当に世界を支えてみせたレックスらしい答えだと思う。


その新説は心躍るのか――風の谷のナウシカへの考察と期待

『風の谷のナウシカ』はどうしても好きになれない。
恥ずかしながらこれまでナウシカのことを知らず、つい最近になって漫画版を購入して一気読みした。動機もかなり不純なもので「ファンタジーを書きたいって? パヤオと正面から殴り合うつもり?」と指摘を受けたからだった。

とにかく凄いんだ、こんなファンタジーは他にない。みんながそんな風に言うナウシカという女性は、本当に強い人だった。大自然がただの舞台というだけではなく、人の原罪の象徴として描かれてストーリーラインに直接関係しているところにとても心躍った。
連載当時のことはよく分からないけれど、「ファンタジーといえば剣と魔法」という2020年代でも通用する概念の中で、生きることの難しさと続けることの大切さをを描き切ったことは本当に凄いと思う。ファンタジーで生命の神秘を表現できると示した本作は、まさにファンタジーの新説と呼ぶに相応しい。

でも、どうしてもナウシカに感情移入できなかった。
それはジブリの教科書に書かれた、熱心にナウシカについて語る人々の意見を読んでも変わらなかった。

彼女は強すぎる。あの世界でナウシカについていける人は本当にわずかしかおらず、世界の命運をナウシカ一人で握っていると言っても過言ではないように思える。だから最後には風の谷を去るしかなかった――そういう風に受け止めると、なんて悲しい物語なのだろうと思わずにはいられない。

この世界には救いがない。そんなのあまりに苦し過ぎる。
だからせめて、ナウシカの本当の望みだけは叶えてあげてほしい。

その願いが何なのか、私には分からない――きっと私はナウシカほどに強くはなれないから。今の自分ではどうやったってあの境地には至れない。
でも、だからこそ、なんでもいいから彼女にとって救いとなる出来事があってほしい。生きることがつらいだけだなんて、まっぴらごめんだから。


シン・ファンタジーに向けて、今やるべきこと

novelの語源はラテン語の「Novus」で、「新しい」や「新鮮な」という意味らしい。
日本におけるファンタジーを大別すると、古き良き<剣と魔法の物語>か、宮崎駿監督が表現した<生命の神秘を描く物語>か、このどちらかになるように思える。
私が知らないだけな気もするが、おそらくこれ以降ファンタジーの新説は生まれていない。

それは何だか勿体ないような気がする。誰もが宮崎駿を目指している、でも決してそこには至らない。それはそうだ、みんなパヤオじゃないんだから。
だからファンタジーを愛する者ならば、次の新説を述べなければならない。

では自分ならどんな新説を述べることができるだろう? あるいは、どんな新説を見たいだろう?

これだ! と自信を持って言えるほどの確信は、残念ながらまだない。この記事を書いていく中で見つけたかったけれど。
でも、現実を生きるうえで無意識に大切にしてきたことは、最近になって気付かされた。

世界から求められることと自分の願いを限りなく一致させること。そうしてみんなが少しでも良い世界で暮らせるようにすること。

現実が嫌で空想<ファンタジー>に逃げてきた私が期待していたことは、きっとこの辛くて苦しい現実世界を生き抜くための方法だった。
<剣と魔法の世界>には、現実世界の乗り越え方なんて描かれない。<生命の神秘>は現実世界の真理が描かれていてもどうすればいいのかまでは示してくれない。
だからこの新説は、たくさんのファンタジーに夢を見させてもらった一人として、提唱しなくてはならない。

ファンタジーの醍醐味は「ここではないどこかを冒険できること」「いつでも勇者になれること」だと思っている。
<剣と魔法の物語>でも<生命の神秘の物語>でも、大自然の不思議な力というものが登場する。それがファンタジーの理というのならば、惑星に芽吹く意思と個としてのヒトの願いを一致させる物語を描くべきだろう。
ちっぽけな自分に出来るだろうか。まだ誰も到達していない領域で自分を信じ続けることができるだろうか。

今こそ強き者ナウシカの言葉を借りる時だ。
「どんなに苦しくとも、生きねば」

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