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 私たちは、一体どうやっていつの間にかこんなに桜を愛するようになるのだろう?やっぱりDNAに仕組まれているのだろうか?個人差はあるだろうけれど、子供の頃は(お酒が飲めなかったから?)お花見は大人や年寄りのものだと思っていた。その頃桜の唄と言えば「さくら さくら 弥生の空は♩」という唱歌くらいのものだったけれど、近年はおしゃれな桜ソングがたくさんあって、若い人たちにもお花見は大事な季節行事になっているようだ。
 初めてはっきり桜をきれいなだあと思って眺めたのは、浪人が決まった春だった。私は文字通り「サクラチル」の電報を受け取って、麗らかな田舎の畦道をふらふらと彷徨っていた。東京の予備校に行くことが決まっていたけれど、出発にはまだ時間があった。周りの人たちがどんどん新しいスタートを切っていく中で、置いていかれる春というものがあることを知った。その年に見上げた桜の何と美しかったことか。
 桜人気の理由の一つは、それが春に咲くことにあるのだろう。日本にはお正月と年度初めという2つのスタートがある。そして入学とか就職とか、人生の節目となる4月の記憶のバックにいつも桜が写っているのだ。今でこそ桜の開花は3月が当たり前みたいになっているけど、'80年代は東京でも開花は4月に入ってからで、いつも10日前後に満開を迎えていたものだ。3月の夜桜では寒すぎて、春特有のあのぼおっとした感じが楽しめないではないか。
 そして多分、桜がこれほど愛されるもう一つの理由は散り際にある。桜は散るからいい。年中咲いていたら誰も気に留めないだろう。桜は元祖期間限定商品なのかもしれない。散り際の儚さ、潔さ、美しさが私たちを魅了し、無意識の内に人生が有限であることを思い出させてくれる。果たしてあと何度、来年は?この人と見れるだろうか?限りがあるからこそ、その生を精一杯生きようという気にもさせてくれるし、きっと終わりの時にはやさしく寄り添ってくれるに違いない。
 若い頃は、桜といえば染井吉野の並木!という感じだったけれど、勿論今でもそれはそれとして、田舎に引っ越して30年余り、最近は江戸彼岸系の一本桜に惹かれるようになってきた。時代を越えて一人でそこに立ち続ける姿には、一本ごとの個性や人格にも似た風格や優美さといったものが感じられる。こちらでは一本桜の番付が毎年発表されるようになっていて、横綱から平幕まで、桜も名前で呼ばれるようになれば一人前だ。加えて、未だ名前は無いけれど見事な桜というのも至るところにあって、いっそのこと自分で名前を付けたくなる。いや、きっと既に見る人が各々好きな名前で呼んでいるに違いない。ん?何だか野良猫の呼び方みたい?

 

 


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