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大江健三郎、「ドン・キホーテ」に成る

『憂い顔の童子』大江健三郎

小説家、「ドン・キホーテ」と森へ帰る。
滑稽かつ悲惨な老年の冒険をつうじて、死んだ母親と去った友人の「真実」に辿りつくまで。

魂に真の和解はあるのか?
書下ろし長篇小説

「森に入って、ある1本の木を選んで、ちょうどいまの年齢の、老年の私が待っている。その私に、子供の私が会いに来るんだ。
しかし老人はね、少年に対して、きみが夢みるほど高い達成はない、この自分が、つまりきみの50年後なんだから、とはいわない。それが「自分の木」のルールだから……」

『取り替え子(チェンジリング)』の続編であり「おかしな二人組」三部作の二作目。

それは「世界文学」である『ドン・キホーテ』をパロディとするサンチョ・パンサ(批評家・翻訳家)がローズさんであり、ドン・キホーテが大江健三郎の分身の古義人であるというメタ・フィクションなのである。その根本にあるのは、古義人の母が言う「小説は嘘を書くもの」というフィクションなのだ。それは四国出身の作家が四国の人々を敵に回すという構造であり、消滅して行った神話世界の「童子(消えた子供)」になれなかった作家の幻想なのである。そこに死者たち(消滅していく彼岸性)に対するオマージュがある。

世界文学というだけ様々な文学の引用がある。それは巻末に出てくる書物だけでも興味深いものだ。『ドン・キホーテ』ベンヤミン『歴史学テーゼ』『パサージュ論』『ハックルベリー・フィンの冒険』『リア王』『ナボコフのドン・キホーテ講義録』。

例えば工藤庸子『大江健三郎の「晩年の仕事」』ではこの小説に出てくるローズさんに倣って大江健三郎の晩年の小説を再読(批評)する。それはバルトの「Rereading(リリーディング)」の方法での『ドン・キホーテ』の読み直しによって、大江健三郎の過去の作品をリライトしていく手法なのだ。そこに批評性があるわけだが、それが過去の作品に及ぶので大江健三郎を初めて読む人にはわかりにくいかもしれない。どこまでも能動的に読むかによって、例えば先に上げた文学書に照らし合わせることによって開かれた文学となっていくのである。プルースト『失われた時を求めて』との関連性をヴェルデュラン夫人のサロンのパロディ化を田部夫人の文化事業の啓蒙サロンとして描いていたり、さらにこの小説の全体は『ナボコフのドン・キホーテ講義録』に負うところが大きいのだ。それらはモダニズム文学として、大江健三郎が世界文学の系譜と繋がっていることを示している。

そうした伝統は日本文学にもあった。『源氏物語』がそれまでの和歌や中国の漢詩から影響を受けて歌物語として創作されたものであり、例えば『源氏物語』を読んだ後に藤原定家が詠んだ和歌。

春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空  藤原定家

は四国に森でローズさんと最後に語るシーンにも出てくる和歌だった。「夢の浮橋」が文学の「架け橋」となって後世(未来の子供たち)に伝えていく世界文学なのだ。それは「私」だけに閉じ込められた私小説とは違い批評性が欠かせないメタフィクションとなっているのだ。

ただローズさんはサンチョ・パンサ(批評家)であるよりもロシナンテ(物語の推進者)のようだった。


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