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「ドラえもん」のび太すがるは神頼み 「ドラえもん」とは大黒様

『ドラえもん短歌』枡野浩一 (小学館文庫)

ドラえもんをテーマに募集された傑作短歌集
57577のリズムに乗せて、「ドラえもん」のなかまたちや、ひみつ道具を読み込んだ短歌。それが「ドラえもん短歌」です。 自転車で君を家まで送ってた どこでもドアが…

現代短歌の旗手である枡野浩一の短歌本。まだ穂村弘の短歌までだと多少理解できるのだが、ここまで来ると理解に苦しむ。

ハーブティにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんの始まり  穂村弘
だれだって寂しいよ だけど本当はないものなんだ「どこでもドア」は  枡野浩一
「ドラえもんがどこかにいる!」と子供らのさざめく車内に大山のぶ代  笹公人

穂村弘の短歌は、虚構としての脳内作業なのだが「どらえもん」と言ってしまうところにボロがでてしまう。それを見逃さない次世代の枡野浩一なのだが、リアルにドラえもんの世界が虚構だった寂しさを歌にしたその気持は、ドラえもん世代には共感を受けるものなのだ。そこから醜い世界へ突入する。

笹公人だとリアルさと虚構が一つの場所で共存している世界を歌っていた。ドラえもん短歌を読めるかどうかで世代感ギャップがあるのだ。

試しにドラえもん短歌を下手なりに作ってみた。ネガティブな感情しか出てこないのである。ドラえもんがすがる神でもなければそのファンタジーの世界には入れない。

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そんなときふと大黒様の写真を撮って、もしかしてドラえもんは大黒様の生まれ変わりかなと思ってしまった。そういうことなのだ。あまりにも信仰的なものを切り捨ててきた合理主義の中に私達の世代はいた。そして、彼等は先祖返りをしている。

今日の右傾化や保守化はそういうことと関係があるのかもしれない。今の読書好きに、読まれる本はほとんど国内作家のライトノベルなんだ。先日にTweetに上がってきた結果を見て愕然としてしまった。「 #名刺代わりの小説10選 」というのを集計した人がいてそのほとんどが日本の小説で海外文学で入っていたのが『星の王子さま』一冊だったのだ。

なんだろうこの違いは。私達の頃は背伸びしても海外作品のドストエフスキーやカフカを読んでいたと思うのだが、もはやそういう時代でもない。映画でも邦画がこれほど見られ外国映画といえばヒーローものの特撮かハリウッド仕様のファンタジーものが流行る。ゴダールをわからないながらも見ようとするものが少なくなってしまった。ゴダールが逝ってしまったのは何かの象徴だったような気がする。

そうか、僕らの世代はゴダールがドラえもんだったということかもしれない。

短歌の世界にドラえもんを導入すること。それはドラえもんこそが短歌の象徴であると気がつくこと。短歌は「どこでもドア」や「タケコプター」のように虚構の世界に連れ出してくれる。そして何よりジャイアンやスネ夫やのび太や静香ちゃんがいる世界なのだ。彼等はそういう繋がりを求めている。


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