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歌で伝わった「好色五人女」

『好色五人女』井原西鶴/東明雅(岩波文庫)

愛に忠実に生きたため掟にふれ痛ましい最後をとげた五人の女,お夏・おせん・おさん・お七・おまんは,いずれも平凡な家庭の娘であり人妻であった.不義密通が極刑に処せられた時代の悲劇.これは日本女性史の上でも貴重な資料であるし,好色物を得意とした西鶴が当時の制度や道徳と正面から対決した意義深い作品である.挿絵入り.

図書館の返却本棚にあったので迂闊に借りてしまった。坂本冬美の『夜桜お七』が好きで原作を読みたいと思ったのだ。しかし西鶴の文章は今の読者には難し過ぎる。文語に慣れてないのもあるが、当時の流行とかわからないのだった。三島由紀夫は西鶴ぐらいは原典で読めなければと言ったが読めないものは読めない。

お七の気持ちになれるかが問題だ。お七は、十六歳だから、今の高校生ぐらいでそれも花の江戸っ子なのである。渋谷あたりにうろついている女子高生と変わらないんじゃないかな。そのぐらい恋には一途なのである。

井原西鶴は俳諧の達人で一夜に2万3千5百句作るほどの自動文章生成機みたいな人で、七五調の文体は気持ちよく読めるが、理解が遠い。それは江戸時代の町人文化の流行りものが描かれているからだ。岩波文庫は字も小さいし。素直に翻訳物を読んだほうが理解が早い。ただ江戸諧謔の戯作文体は面白い。エロ話が多いというか江戸時代の方が性は解放されていたかも(男にとってか?男色もあるぜよ)。ここに登場する女たちは悲恋。不義密通は極刑。ああそうだ、昔は姦通罪というものがあったのだ。北原白秋姦通罪に問われた。そのぐらい恋も真剣だったのかのしれない。その後に『邪宗門』という詩が生まれたのだ。今は当たり前のように不倫ドラマがはびこり、恋もライトノベル化されていると思う。やっぱイスラム社会だよな。恋も真剣なのは、と思わずにはいられない。この時代西鶴がみたいな作家がいたのだから、人間やるときはやるんだよな。

わからないけど絵入りということで、少しは想像できるかなと思ったが絵もドレとかのような感じでもないし漫画みたいな。今のアニメみたいな感じではなく素朴な絵だった。版画だからか?北斎とかレベルではないような気がする。作者不明だった。

五人の女の恋バナという感じなのか?姫路、大坂、京都、江戸、薩摩のそれぞれの恋のスキャンダル記事というような犯罪事件。

『富岡多恵子の好色五人女』富岡多恵子 (わたしの古典16)

果ては地獄と知りながら、足を踏み込む恋の道―。激しく燃える五人女が織って綾なす色恋模様。

「わたしの古典シリーズ」は現代作家による古典翻訳で、池澤夏樹「日本文学全集」の古典も現在の人気作家が訳していたが、そんな感じだったのか?ちなみに「日本文学全集」の方では西鶴を訳しているのは『好色一代男』で島田雅彦だった。なんとなくわかるな。女の方は訳されてないんだよな。誰がいいだろうか?伊藤比呂美か川上未映子あたりか?

『好色五人女』+『好色一代女』。『好色一代女』は溝口健二監督で田中絹代主演の映画で観たことがあった。何と言っても有名なのは坂本冬美が歌った「夜桜お七」だが、それはこの中の「八百屋お七」(『恋草からけし八百屋お七』)を林あまりが作詞したものだった。歌は悲恋のドラマだが西鶴の話はそこに諧謔性が加わる。例えば普段は雷が怖いのに恋をすると雷も恐れぬ女性になる。お七の年齢が一六歳なのだ。その年代の一途さはシェイクスピア劇でも『ロミオとジュリエット』でも証明されている。今だと渋谷あたりにたむろするギャルなのだ。それが恋の革命女子として法を顧みず最後は火刑にされてしまう。その純粋さは論理よりも感性だった。

三島由紀夫が西鶴ぐらい原作で読めなければと言ったそうなのだが、翻訳でも十分楽しめる。富岡多恵子の翻訳が合っているのかもしれない。『好色五人女』は浄瑠璃の手法を借りて五幕で多用なエピソードがあるから、短い中にも多様性な話が盛り込んである。そこが場面ごとに違う話になるようで読みにくかったりする。それが純粋な恋だったり、あるいはちょっとエッチな性愛だったり、神仏の教えだったりするのだ。神仏の教えと言っても、なんでもかんでも神が叶えてくれると思ったら大間違いだという神が出てきたり。神やら化け物やらそれでも人間が一番怖いみたいな。そういう江戸文化の中で生き生きと輝く女たちの物語だ。お七は乙女だったけど、そういう女ばかりではなくおさんのように、女にちょっかい出す男を懲らしめてやろうとして、ミイラ取りがミイラになるような悲恋もあった。分別があってもどこに落とし穴があるかわからない。特にこの時代の女の生きづらさよ。

第五巻「おまんの恋」では、男色の坊主を好きになったおまんが男装までして、思いを遂げるのであった。

薩摩地方の話なのだが美男の「鳥さし」という男は、島尾ミホ『海辺の生と死』にも出てきた。西鶴を読んだというより、奄美にそういう歌が伝わったのだろう。海を超えて本土から旅芸人がやってくると書いてあったから。

そうなんだよな。それらの話が西鶴に伝わったのも歌などの大衆芸能だったのだ。浄瑠璃とかも今のスキャンダラスな事件を芝居にして人々の娯楽として伝わっていく。浄瑠璃の近松門左衛門とかそういう戯曲を書いたのだ。今で言う桐野 夏生とかちょっと昔だと松本清張とか。西鶴にはそういうジャーナリズムの戯作文学だった。

女たちは最後は極刑にされたり狂ったりするのだが、人々の記憶の中で生き続けるのだ。だからそれが歌になり、後世に伝わることもあるのだった。


『新版 好色五人女 現代語訳付き 』井原 西鶴 , (翻訳)谷脇 理史 (角川ソフィア文庫)



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