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箒草というよりコキアの方がエモい

コキアというらしい。和名は箒草。乾燥させて箒になるらしい。赤い箒はみたことないが。

午前中に図書館に行って三冊返却のニ冊イン。『戦後詩のポエティクス』は読まずに返却。詩の本は今は読めそうもない。そのぐらい短歌にのめり込んでいる。昨日借りたのは安田純生『歌ことば事情』。あと藤田湘子『20週俳句入門』。以前読んだことがあったのだが、基本的なことでそれ以後の俳句づくりにはいまいちかなと思ってしまった。それは同時期に金子兜太の新興俳句の方に興味が移ったからだ。

今回もう一度見直したいと思ったのは短歌作りのこともある。どういうことかというとこの俳句本の良いところは20週の課題が与えられ、それをこなしていけばいっぱしの俳句が出来るというものだ。それを短歌づくりに応用できないか?と考えたのである。短歌入門書を読めばいいじゃないか、と思うがそこまでは達していないというか、簡単な入門書は当たり前すぎて、その先は難しすぎてという感じだろうか?とくに文語が悩ましい。俳句にも文語はあるのだから、そこを見直そうというわけだった。ちなみに(新板)である。まあ、俳句も上達すればなおよし。

昨日の「うたの日」のお題が文語だった。それで『角川 短歌 2022年5月号』の特集が「抑えておきたい古典和歌」だったので読んでみる。古典和歌からテーマごとに十首上げてコメントをつけるのだが、歌人を厳密に文法よりも読みの韻律の良さを主体として上げている。古典だから正しい文法であるとは限らないし、正しい文法が和歌の良さでもないのだ。今なお現代人の我々には判断つかない言葉もあり、学者の間でも解釈が揺れている。

そんな中で読んだ

古橋信孝『誤読された万葉集』で斎藤茂吉『万葉秀歌』の解釈を批判しているのだが、古橋信孝がその時代の読みから解釈しているのに、斎藤茂吉は実作者として現代(当時)の短歌から「万葉集」を見ているのだ。そこには呪術性という要素は必要ない。写生という観点から『万葉集』を読めばいい。それに対抗したのが寺山修司とか塚本邦雄なのだと思うが、その問題は別にして、学者と文学者の読みの違いがそこにある。

それと関連して、橋本治『小林秀雄の恵み』は小林秀雄の読みが本居宣長の歌よみの資質を無視して、国学者の本居宣長を引き出そうとしている。それは小林秀雄の立ち位置から見た本居宣長であり、初めから歌よみ本居宣長を無視しているのだ。そこを鋭く突く橋本治は古典における「歌」の重要性を知っているからである。それは『源氏物語』の本文以上にそこに出てくる和歌の重要性を知っているということから来るのだ。だから本居宣長の『源氏物語』の「もののあはれ」という読み解きにも疑問を呈す。

それと俳句界のニュースとして、AI俳句が高浜虚子の俳句よりも京大生に受けた(評価の問題だが好みの問題なのだ)。

AI創作の俳句、高浜虚子の句より評価高く 京都大学の研究グループ調査 | 京都新聞.。https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/911421

京都新聞

そのことに俳句界から異議が出ているのだ。プロの俳人の読みと素人学生では評価が違う。確かにその歴史というものが背景にあるのだから、高浜虚子の俳句が駄目句なのは問題なのである。ただそれも一般人が現在の俳句から共感するのはAI俳句の方なのだということである。それはAI技術の発達と共に例えばヴォーカロイドだったらより人間の声に近づいている。ただその声はあくまでも平均的な歌い手であり、今流行りの歌手モデルであって、そこに美空ひばりの声を真似させても気持ち悪いものになる。その時の感情がないからだ。絶えず冷静に音程を狂わすことなく歌う美空ひばりに何の意味があるのか。ライブでの美空ひばりはその場に合わせて感情を表現出来た稀有な歌手だった。だから同時代的に生きた戦後世代はひばりちゃんなのである。そこには子供時代から老いていくまでの歴史があるのだ。全盛期のひばりの声をAIで再現してもそこには魂はないのである。

俳句の場合もそんなところだろう。面白いのは戦後「第二芸術論」を出した桑原武夫の論述にも問題が波及していることだった。桑原武夫もデーター的なものの見方で、一人の俳人を読むことはしない。その一人の俳人も戦前、戦中、戦後という変遷があるのだ。それによって評価も違ってくる。多くの俳人が戦中に翼賛体制下で軍国主義に染まったのは事実である。ただそれは俳句だけが特別ということではない。小説家だってそうなのである。たまたま小説家でも太宰治ようなやる気のない小説家がいただけなのである。あと小説家の反応としてすぐに対応できなかったというのがあるらしい。だからプロパガンダの俳句集や詩集のようなまとまったものはなかったのだと。ただそこも批判したから戦後俳句や戦後詩というものが出てきたのも事実だ。

そうした批判は、例えば今の俳句界でもデーター的なものが遵守される風潮なのではないか?それまでの誰もが共感できるものからエモいと言われる評価軸。それはネット句会(俳句ポスト)で夏井いつきの選評の言葉がデーター主義に陥ってしまっている。そこにはAI俳句にはかなわないものがあるのだ。ただAI俳句は俳句を作るだけで、もう一つの俳句の魅力読みというものが、どうなのだろう?というのはある。誰もが納得させられる読みが出来るのか?

「類想」についての選者のコメントhttps://haikutown.jp/post/result/other-monday.php?

俳句ポスト365




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