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この「投壜通信」は誰に届くのだろう

『「投壜通信」の詩人たち――〈詩の危機〉からホロコースト』細見和之

ポー、マラルメ、ヴァレリー、エリオット、そしてツェラン――。西洋の没落が叫ばれ、反ユダヤ主義が渦巻くなか、彼ら「投壜通信」の詩人たちはいかに詩作をなしたのか。近代文学史に新たな補助線を引く画期的論考。

難破船から放たれた壜詰の手記―。一九世紀半ばのポーから二〇世紀後半のツェランまで、ヨーロッパには、この「投壜通信」をモティーフとした詩人たちの系譜があった。「西洋の没落」という嵐のもと、反ユダヤ主義の潮流が渦巻くなか、彼らはいかに現実と対峙し、詩を解き放ったのか。言語の壁を越えて展開し、西洋近代文学史に新たな補助線を引く画期的論考。
目次
第1章 エドガー・ポーと美的仮象
第2章 ステファヌ・マラルメと「絶対の書」
第3章 ポール・ヴァレリーとドレフュス事件
第4章 T.S.エリオットと反ユダヤ主義
第5章 イツハク・カツェネルソンとワルシャワ・ゲットー
第6章 パウル・ツェランとホロコースト(上)―「死のフーガ」をめぐって
第7章 パウル・ツェランとホロコースト(下)―「エングフュールング」をめぐって

「投壜通信」なんて書くとロマンチックな言葉だと思っていたが、ポーの小説では、難破船からありえない恐怖体験を誰かに知らしめたい(それは語り手はすでに死に絶えている)という彼岸からの手紙なのだ。なにやら未知の世界へ海を通じて投げ込む壜に詰められた手紙だと思っていたのは、パウル・ツェランの言葉の意味をよく考えないで読んでいたいせいかもしれない。

詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に──おそらく心の岸辺に──流れつくという(かならずしもいつも期待にみちてはいない)信念の下に投げ込まれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるのです──何かをめざすものです。

飯吉光夫編『パウル・ツェラン詩文集』

パウル・ツェランから始めるが、ツェランは多和田葉子経由でツェランのドイツ語は日本語のように多様な意味を帯びていて詩は音楽的だと書いた記事を読んだのだと思う。その経緯でアウシュヴィッツを体験した作家だと知ってはいたが、不思議とツェランの「死のフーガ」とか心地よい感じなのである。

「死のフーガ」
夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ
ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ
ぼくらはのむそしてのむ

飯吉光夫編『パウル・ツェラン詩文集』

ただこの最後の行はゲーテ『ファウスト』のマルガレーテ(ヒロイン)が引用され、それと対になってユダヤ人女性の名前が書き連ねている。それは旧約聖書に出てくるユダヤ人女性なのだが、ホロコーストを暗示している。

ツェランは語学的才能があったのにも関わらず母語であるドイツ語で詩を発表したという。それは失われた世界にあってただ言葉だけが彼を癒やしてくれたからだ(言葉の中に彼の家族が生きていた)。ただ戦後はそのドイツで誹謗中傷の憂き目に逢う。それはツェランの詩は引用や本歌取り的な詩の形式であるドイツ人ユダヤ人の詩を預かり翻訳しようとしたところその妻がストップを掛けて盗作だと騒動になる。それはその妻がツェランの翻訳そのままに出版したことから、逆に彼女自身の盗作問題を問われるのを先手を打ったということだった。出版社が裁判にでも持っていけば明らかになったのに、出版社はこういうことには逃げ腰になる。そのあおりを受けてツェランが批判されるのはドイツのユダヤ人ということもあったという。そのことで彼は自死するほどに追い詰められていく。

ツェランの「エングフュールング」という詩も音楽用語を取り入れた詩なのだが、翻訳詩を見て連想するのが折口信夫『死者の書』である。石の中に眠っている死者を呼び出すような言葉は折口信夫の音楽的綴りの散文と共鳴していくような気がする。ツェランは口承詩の人で、言葉の二重性(例えば日本の掛詞)のように多様な意味を持たせる。その解説がこの本では素晴らしいのだ。ツェランの難破船というホロコーストのヴィジョンが伺えるような。

ホロコーストで亡くなった詩人イツハク・カツェネルソンは日本ではあまり知られてはいないと思う。ウィキペディアの日本版にも出てこない詩人だ(英語版はある)

彼こそがホロコーストの最中、壜に詰めた詩を地中に埋めて彼岸からの詩を伝えた詩人だったのだ。それはナチスのホロコースト(絶滅政策)を体験し、その中で書かれた詩なのである。今のパレスチナの状況かと思うような詩

暗い部屋の荒んだ四つの壁のあいだに
私は侵入する、両手をきつくもみしだきながら

ハナ!お前はいない、私の息子たちもいない
いない………彼の姿はもうない、気配すらもない

ハナ!驚いて私は名前を呼ぶ
ついさっき私はここで彼らと別れたのだ、ついさっき!

ここに彼らはいたのだ!何てことだ、何という不幸だ!
暗い部屋がさらにいっそう暗くなる

カツェネルソン細見和之訳『ワルシャワ・ゲットー詩集』

「ハナ」は妻の名前。この後に息子の名前も出てくる。彼は言葉によって彼らの名前を刻み付けたかった。

エリオットは日本の「荒地」派がエリオットの「荒地」と敗戦後の日本のヴィジョンを重ねて共感したのが広く伝わっていく。作家は思想よりも詩そのもので判断すべきという純粋的な鑑賞(作家論ではなく作品論)が日本では当たり前だとされるがそれにしてもエリオットの詩の中に反ユダヤ主義が書かれているのを見過ごす。そしてツェランらのホロコースト経験者の詩はアホロコーストという負の側面から敬遠されたりするのだった。

ポール・ヴァレリーも日本ではボードレールやマラルメの象徴詩人たちを愛する自由な精神の批評家という位置づけだが、彼が反ドレフィスで個人より国家、またドイツ統治下のヴィシー政権支持者であったことはあまり知られていない。それを強く批判したのがブランショであったという(彼も右翼思想だったのだ)。

エリオットが批判したポーの英文学からボードレールやマラルメのフランス象徴詩がもたらされたのであるが、彼らは英語が堪能だったわけではなく(エリオットはポーの英語を貶していた)、詩人のヴィジョンを捉えたのだ。それは詩が本来は言葉に出来ない言葉を象徴性によって表現していくというそのものを捉えたのである。

「投壜通信」なんて書くと見知らぬ他者に向けて海に投げ込む壜に詰めた手紙でロマンチックな感じだが、ポーの「壜の中の手記」は怪奇作家そのままに絶望状態の難破船の彼岸から書いた手記だったのである。

それはメルヴィルやコンラッドの海洋小説からのゴシックロマンであったがポーの心理描写がフランス象徴詩人たちの心を捉えたのである。

例えば日本の近代詩人がヨーロッパの詩を翻訳するのに、言語的意味では不正確かもしれないが詩心は伝えてくる(もともと詩人は韻文的なものを伝えるのは不可能だと思っているのだ。それでも伝えたいものがその詩の中にあったのだ)。ボードレールは詩は翻訳できないと諦めていた。だからポーの「大鴉」から「信天翁」を書いたのだ。そういう詩心がわからない人が例えばエリオットのように正確な英語ではないと否定して、ポーの詩心を見失う。

それぞれの作家の詩を交えながら魅力的な「投壜通信」になっていた。


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