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『モスラ』の幼虫は『風の谷のナウシカ』の王蟲だった

『堀田善衞とドストエフスキー』高橋誠一郎

池澤夏樹が思想の柱といい宮崎駿が世界を知る羅針盤とする堀田善衞。その堀田の若き日々をつづった作品で大きな存在感を見せるドストエフスキー。二人の作家は混迷を極める時代にどのように向き合い、作品を生み出していったのか。共鳴する二人の作家の思索をたどり、パンデミックや戦争の危機に直面している現代において他者を容赦しない大審問官的な存在を越えて進むべき道筋を考察した比較文学によって開く新たな視野。
ドストエフスキー生誕200年記念出版

堀田善衛の作品を追いながらドストエフスキーの影響を見ていく。そこに小林秀雄のドストエフスキー観の対峙があった。『罪と罰』のラスコーリニコフ観の違い。そこから小林秀雄は『悪霊』スタヴローギンにニーチェの超人思想を見出していくが、堀田善衛は『白痴』のムイシュキン公爵の無垢なる良心に希望を見出す。

そして『カラマーゾフの兄弟』の大審問官とアリョーシャによる展開。ヨハネ黙示録による終末論に見る核戦争の驚異。

映画では『モスラ』の脚本を書き、宮崎駿監督の映画にも多大なる影響を与えた堀田善衛解説本。

はじめに 堀田善衞のドストエフスキー観―ドストエフスキーで現代を考える

堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』堀辰雄をモデルにした「成宗の先生」

「ランボーとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出ていき、ドストエフスキーは入ってくる。同じですね」(堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』)

『若き日の詩人たちの肖像』は夏目漱石『坊っちゃん』と同じ手法のあだ名で呼ばれる人物たちの昭和初期の青春群像。その中で『カラマーゾフの兄弟』を愛読し、『大審問官』を論じる「アリョーシャ」と呼ばれる若者が「狂信的な国学信奉者」となっていく。

『方丈記私記』平安京の大火事、安元の大火を体験した鴨長明と東京大空襲を体験した堀田善衛の共通項。「ヨハネの黙示録」に言及、短編『審判』、長編小説『時間』への展開。

原爆投下による「黙示録」的情景。

「まことに、全人類を滅ぼしつくしてなおあまりあるという原水爆の鍵を与えた者はいったい誰なのだ、と言いたくなるというものである。原水爆とブッヘンワルト・アウシュヴィッツ──現代も、ある意味では黙示録的時代であると言いうるであろう。」

『ゴヤ』でのナポレオン軍侵攻によって引き起こされる異端審問の問題を文明論的な視点から分析。『路上の人』ではカタリ派滅亡を描く。

そんな堀田善衛を宮崎駿監督は「海原に屹立している、鋭く尖った巌のような人」と言い、彼の文学の重要さについて語っている。

「これは強靭な文学です。強靭なものというのは、今これから始まってくる大混乱の時代、何かの形でものを考えたりっする時の手掛かりになると思うのです」


序章 芥川龍之介のドストエフスキー観―『罪と罰』の考察と悲劇の洞察

芥が龍之介の日中戦争直前の自殺問題。小林秀雄は、芥川は神経のみを描いた作家で現実を見ようとはしなかった。それに対する堀辰雄の『芥川龍之介論』で芥川の視野の広さと洞察力を称える。検閲問題に迫った『河童』は夏目漱石『文評論』のスウィスト論の一部を引用して「風刺」の意義を説いた。『歯車』で引用されるラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフの父殺しのテーマも示唆される。

澄江堂雑記』でのチャプリン暗殺の示唆する。実際に5.15事件では来日の歓迎式典で暗殺を準備していた。

芥川龍之介と大逆事件。『白夜』ドストエフスキーの恩赦との対比。言論が弾圧されることへの危機感。森鴎外『沈黙の塔』での事件の衝撃を伝える。徳冨蘆花の演説『謀叛論』を芥川は聞いていた。

雑誌『新思潮』の理念。自然主義文学と耽美的な美と人道的な善の調和を目指すが破綻していく。『羅生門』の『罪と罰』の影響。ラスコーリニコフと老婆に加害する下人との類似性。夏目漱石『趣味の遺伝』戦死者の墓と恋人を思い出す違和感。反戦的な芥川『桃太郎』執筆。


第一章 絶望との対峙―『白夜』の時代と『若き日の詩人たちの肖像』

「 驚くべき夜であった。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であった。空は一面星に飾られ非常に輝かしかったので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間がはたして生存し得られるものだろうかと、思はず自問せざるえなかったほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるように.........。」(ドストエフスキー、訳米川正夫『白夜』)

堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』からドストエフスキーの文学を読み取る。『若き日の詩人たちの肖像』は漱石『坊っちゃん』を模倣して、あだ名で登場人物が呼ばれ登場人物の性格の一旦がうかがえる。そして、堀田善衛の青春時代(もっとも始まりが2.26事件の暗い幕開け)の自伝的様相を帯びるのだ。

中でも興味深いのが『カラマーゾフの兄弟』と同じアリョーシャのあだ名を持ち太宰治に心頭しながら、後に国家主義的な人物に変貌するのが興味深い。『カラマーゾフの兄弟』については、未完で続編が構想されていたという亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」 (光文社新書)という本があったが、それを1968年に1930年代の国家主義に流れていく日本を舞台とした小説を描いていたのだ。

それと対置させるのがドストエフスキー『白痴』のムイシュキンであり、それは堀田善衛の叔母が『ドン・キホーテ』を翻訳を手伝っていたということから、この主人公の卒論が『白痴』論なのも興味深い。

それは当時の日本の文壇を支配していた「日本浪曼派」の古代神道の一神教的な皇国神道とし、日本精神や殉教精神(そこにはキリスト教的なものがあるのだが見事にすり替えられる)の礼賛、なによりも美を死の礼賛と捉える天皇とその国体論の皇国民思想と発展していくのである。

その思想の大家としての小林秀雄のランボオ論及びドストエフスキー論に対置していく、堀田善衛の思想形成の物語でもある。

それは堀辰雄をモデルとする「成宗先生」が言う

「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」(堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』)

それは芥川龍之介の死を巡っての小林秀雄と堀辰雄の対立。小林秀雄は芥川は、「神経のみを描いた作家で現実を見ようとはしなかった」と描くが、堀辰雄は芥川が軍国主義的に邁進していく日本を見て『桃太郎』や『河童』のような寓話を書いた。そこにある思想は、ムイシュキン公爵の「殺すなかれ」という理念を持った詩人としてたち現れてくるのである。

「左様──ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行ってしまい、おまけにヨーロッパからさえも出て行ってしまった、というのっが、若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった。」(同書)

それは死者を美化しない、生者の言葉として、詩が意味を持つことであった。


第二章『罪と罰』のテーマと日本の知識人の考察―武田泰淳の『審判』から『記念碑』へ

埴谷雄高、椎名麟三、武田泰淳、野間宏、堀田善衛らの戦後派は「あさっての会」を通じて議論していた。中でも堀田善衛は、上海で中国語を教えられた武田泰淳を尊敬していた。武田泰淳の短編『審判』から堀田善衛の長編『審判』が書かれた。それは、二人が影響されたドストエフスキー(『罪と罰』ラスコーリニコフ)の影響が大きい。

小林秀雄はドストエフスキーを美意識の詩としてラスコーリニコフの老婆殺しを描いたが、それに反発するラスコリーニコフの解釈。堀田善衛はあの当時の上海では、ラスコーリニコフ以上の残虐さの中にあった当時の日本人を顧みて自身の問題として、解放された上海に残り小説を書いた。

そしてその過程から『時間』が書かれる。辺見庸は、南京大虐殺を被害者の中国人の立場から描いた堀田善衞『時間』を評価し、大江健三郎は『祖国喪失』でユダヤ人でありながら理想の国家建設を夢見、また新たな神学『エチカ』を書いたスピノザと比較する。『記念碑』での無条件降伏後もGHQに寝返る国家主義者たち。そして、特攻隊で死にきれず自堕落になっていく者たち。

芥川賞受賞作の『広場の孤独』は、戦時中の新聞記者が敗戦後追放処分を受けたが、朝鮮戦争が始まると赤狩りの急先鋒に立たされることになる作家の苦悩を描く。


第三章 ドストエフスキーの手法の考察と応用―『囚われて』から『零から数えて』へ

小林秀雄は日本の批評界の重鎮だが、小林秀雄との対峙によって堀辰雄は自らの思索を明らかにしていく。その手掛かりがドストエフスキーにあった。二人のドストエフスキー観の違い。

寺田透「小林秀雄論」(1951年)

「対象を自分に引き付けて問題の解決をはかる、なんというか、一種の狭量の持ち主であることも語っている。」(同書)
「より情緒的、より人間臭く、そして、じかに人間解釈にもとづく、積極的な誤訳」をしている。(同書)

小林秀雄が本多秋五に対して「コメディー・リテレール──小林秀雄を囲んで」(1946.2『近代文學』)で言ったこと。

「自分は黙って事変に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」

その発言は後で入れたことを埴谷雄高が証言。つまり議論上では黙っていたのに、後で知識人が戦争犯罪に加担したという批判に対して毅然と反論したとされて小林秀雄の評価が高まり「批評の神様」と賛美されるようになる。神様は捏造がお好き!

小林秀雄の1970年の講義。「僕たちは宿命として、日本人に生まれてきたのです。(.........)日本人は日本人の伝統というものの中に入って物を考え、行いをしないと、本当のことはできやしない、と本居さんは考えた。」(同書)
堀田善衛は、「江戸時代に『古事記』の解釈をとおして「漢意(かろごろも)を批判する一方で自国を「神聖化」した本居宣長を賛美することの危険性を指摘していたと思える。(同書)

その日本人観によって小林秀雄はラスコーリニコフの美意識を見るが、堀田善衛はラスコーリニコフの反省観をみる。

そして、小林が『悪霊』のスタヴローギンについて善悪を超えた超人思想の自由を得た人物として賛美する。

「自分は善悪の区別を知りもしなければ、感じもしない。いや、自分がそういう感覚を失ったばかりでなく、もともと善悪の区別などというものは偏見だけだ。(そう考えると気持ちがよかった)自分はあらゆる偏見から自由になる事ができるが、そういう自由が得られた時は、自分の破壊の時だ。これは生まれて始めて定義の形で意識したのも、しかも取巻連と、莫迦話として大笑いしている中に、ふと浮かんで来た意識なのである。」

一方、堀田善衛は広島に落とされた原爆の悲惨さを目の当たりにし、いきすぎた利己主義が自身の破壊ではなく、世界の破滅をもたらすことを感じていた。そして彼が見出していくのが『白痴』の理想主義を追いかけるムイシュキン公爵なのである。

椎名麟三の『悪霊』キリーロフ観は、カミュが「隣人愛」の表現としての自殺、を受けて『罪と罰』のラスコーリニコフの殺人が「論理的殺人」と呼ばれるのであれば、キリーロフの場合は「論理的自殺」と考えた。それは『二十歳のエチュード』を残し自殺した原口統三(1946年自殺した夭折した詩人ランボー等フランス象徴詩人の影響を受ける)を通して、芥川の自殺に言及する。

「君はあの菩提樹の下に『エトナのエムペドクレス』を論じあった二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみずから神にしたい一人だった」

「僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである。いやみずから大凡下の一人としているものである」(同書)

芥川龍之介の神となることを否定した者はムイシュキン公爵につながっていく。

映画『モスラ』(1961)共同脚本(中村真一郎、福永武彦、堀田善衛)『発光妖精とモスラ』。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験への関心。

第四章 核の時代の倫理と文学―ドストエフスキーで長編小説『審判』を読み解く

ドストエフスキー「大審問官」のテーマと核の時代の審判。

「現代のあらゆるものは、萌芽としてドストエフスキーにある。たとえば、原子爆弾は現代の大審問官である」(堀田善衛、同書)

『審判』の時代設定は安保条約改定時期。日本が再び戦争へと加担していく政治状況を見据えていた。「家庭を戦場にしたピカレスク小説である。」原爆を投下したパイロットの先導役として乗ることになったアメリカ人(実際には乗らなかった)ポールを殺害しようとする日本人吉備彦、日中戦争体験者の恭助を巡るポリフォニー的小説。

第五章 ナポレオン戦争と異端審問制度の考察―『ゴヤ』から『路上の人』へ

ナポレオン戦争のスペイン独立戦争とロシアの祖国戦争の共通点として、市民階級が貴族階級への抗戦としてナポレオン多国籍軍の正義を信じたのだが、それはフランスの帝国主義にすぎずナポレオン軍の敗戦と共に大いなる反動政治がやってくる。そのことをゴヤはルポルタージュのような写生で拷問や異端審問を描いた。堀田善衛はゴヤのスペインとドストエフスキーのロシアの共通点を見ていた。

またカタリ派の弾圧から描かれたのが『路上の人』である。


終章 宮崎アニメに見る堀田善衞の世界―映画『風の谷のナウシカ』から映画『風立ちぬ』へ

宮崎駿監督の堀田善衛の影響について。映画『風の谷のナウシカ』の王蟲は、モスラの幼虫を参考にし、トルメキアはナポレオン軍、ユパの戦いは辺境のカタリ派弾圧が描かれる。

『風立ちぬ』は『若き日の詩人たちの肖像』の影響が伺われる。


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