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安藤大尉萌の松本清張

『新装版 昭和史発掘 (6)』松本清張 (文春文庫)

青年将校らの精神的支柱となっていた「魔王」北一輝。しかし、若い彼らの動きは、最早、北の意図を超えるまでに尖鋭化していた。様々な思いの青年将校たち。「時機尚早」を唱えていた部下思いの安藤大尉はなぜ蹶起に踏み切ったのか。複雑な人間模様。革新への熱と逡巡。刻一刻と緊張感高まる二・二六事件決行前夜を括写する。
目次
北、西田と青年将校運動
安藤大尉と山口大尉
二月二十五日夜

5巻を読んでから4年のブランクがあったので、思い出すためにこれまでのまとめ。軍隊の中が皇道派・統制派の争いが激しくなって統制派の重鎮永田鉄山軍務局長(陸軍少将)を相沢三郎陸軍歩兵中佐が暗殺するのだった。皇道派は北一輝の思想の影響を受けて(天皇親政の政治、当時政権が乱れ圧政により地方の農民は苦しんでいた)、青年将校を中心に昭和維新軍を立ち上げた。そしてその裁判(相沢事件裁判)が開かれて、裏工作もなされるのだが、裁判は相沢三郎陸軍歩兵中佐は死刑となり、一部過激な青年将校らはクーデター(2.26事件)を目論むのであった(統制派と呼ばれる人の中にも皇道派に通じている者がいた)。

北、西田と青年将校運動

前巻『新装版 昭和史発掘 (5)』からの続き。白昼堂々永田鉄山陸軍事務局長(少将)を斬殺した「相沢事件」(相沢三郎陸軍中佐)の裁判で皇道派はいろいろ裏工作をして中佐の減刑を図るが上手く行かない。そして裁判に近衛兵長官の証人として出廷するために裁判は秘匿裁判になり皇道派の連中は裁判から締め出された。それは相沢中佐の直刑に傾いていく。そのなかで皇道派も青年将校たちは血気盛んに力による転覆を目指すが穏健派(皇道派の古株)は政治工作の道を探っていた。さらに皇道派の陸一と陸三は首都の防衛常務だったのが、突然に満州覇権の計画が三月にあるというので、青年将校たちはその前にクーデターを決行すべきとの論理が固まっていく。松本清張は、元憲兵の橋本亀治『秘録二・二六事件真相史』を調べてその証言を中心に背景を描いていく。

それによると青年将校の会合には憲兵の密偵がいたが会談内容までは探れず報告が上部に上がってもそういう噂ばかり(クーデターを起こす噂は前からあったが実際には起きなかった)なので、今回もそうだろうと黙認したという。また統制派の会合が贅沢三昧なのに、皇道派の会合は質素なものでそれも店側はなかなか憲兵には協力的ではなかったという。

2.26事件が農村部の困窮する者たち(皇道派の軍隊に来るものは農村部の出身が多かった)の理念が反体制的な天皇による親政を目指す北一輝の思想に染まっていく。それは財閥解体と官僚制を排し、軍部を介して天皇と国民を直接繋ぐというものだった。しかし天皇はそれを望んでいなかったので、青年将校たちのクーデターは逆賊ということになっていく。

北一輝の天皇による親政は、一種の国家社会主義(ファシズム=独裁政治)に近いのかもしれない。天皇による絶対権力を認めるもので、それが日本の右翼思想の根本となっている。ただそれを主張する北一輝はお抱え運転手に女中生活というブルジョア生活を送っていた。それは三井財閥の池田成彬(しげあき)からの裏金を得ていたのだった(北が情報を漏らして見返りに金を得ていたという裏の顔も)。

北一輝はその資金の一部を毎月西田悦に手渡し活動を広げていった。その為に北一輝がクーデターの主犯と見られたという。ここに三井財閥と軍部による密接な繋がりがあったとする(三井財閥は他の財閥を潰したかった?)これは隠さねばならない秘密であったのだとする。それが秘匿裁判の全貌であり、北一輝を切るために行われたという説は、北のライバルである大川周明が北一輝の代わりに後の政界や軍部に食い入ったとする。

当時の右翼は財閥から金をせしめて勢力を維持していたのだ。北は貧しい学生時代は中国革命を起こした者たちとも繋がりがあった。それが北一輝の思想の核になる「純正社会主義」はマルクスやルソーを離れていく。ここに松本清張はフランス革命のシェエスの思想を見ているのかもしれない。

また北はダーウィンの進化論からも多く影響をうけており、それがマルクスとことなる「社会進化論」を論ずる。それは国家は国体でなければならず、人民と天皇の思想が一致する天皇進化論でもあったのだ。それは法の主体は人民にあるのではなく、国家にあると規定する(今の右翼思想と重なる?)。それは天皇個人の権力でもなく国家との共同参加の権力となるのだった。それはある一面で美濃部達吉の「天皇機関説」と同じだという。つまり天皇はシステム(機関)なのだ。ただ美濃部の「天皇機関説」は明治の近代化から始まるのに対して、北一輝の主張はそれは古代の天皇制(神道)から進化していくものなのだという。

また北一輝が右傾化していくのは中国革命を通して革命組織とも関係していく(ただし孫文嫌いとある)。中国革命がナショナリズムを帯びていくのは外国資本の排除ということを考えれば当然か?ここに中国の国家社会主義の萌芽もあるのだ。

また北一輝と日蓮宗の繋がりも見逃してはならないとする。日蓮宗は軍国時代にも軍部と繋がりを持っていた。北一輝の精神性は宗教的なものを含んで(出口王仁三郎の大本教との関係も)、それが天皇制ファシズムを培っていくのである。その為に北一輝は「魔王」と呼ばれるほどの存在感を示すことになるのだった。北一輝の思想は民間人によるものだったので後に北一輝の『日本改造法案大網』を改変した大岸頼好『皇政維持法案大綱』に受け継がれていく。

その舎弟として西田悦は2.26事件の中心人物として関わっていく。西田悦は秩父宮にシンパシー(彼の片想い的な)を感じており、一時は秩父宮が関係したとの噂も上がったが、皇族は守秘義務があったのでその関係は明らかにされていない。その西田が北一輝の思想に感化されてクーデターを起こすのだがそこに民衆の姿はなかったとする。

参考文献:末松太平『私の昭和史』(三島由紀夫が絶賛したという)

安藤大尉と山口大尉

安藤大尉は叩き上げの実直タイプで鶴田浩二や高倉健タイプの軍人をイメージする。それに対して山口大尉はエリート軍人であるが、両者の皇道派青年将校との関わりが二人の明暗を分けたと推測する。

安藤大尉は誰からも好かれる軍人であり皇道派だけではなく、統制派の上官からも一目置かれて、立場的には青年将校たちの決起を早る気持ちを抑えていたのだが、抑えきれない状況になっていき(自身が)中心となる歩兵部隊を率いてたこともあって、態度を保留していることも出来ずに首謀者となって処刑される。下士官思いの隊長であり信頼も厚かったこともあり、彼らの行動を無視することもできなかったのである。

山口大尉も安藤大尉と似たような立場に立たされていたのだが、部隊を持たされていなかった為に上官との調整役として立っていたのだが、直接部隊を指揮することはなく(計画書は作成したようだが)下士官からもそれほど仲間意識を持たれなかったために「叛乱者を利す」という政治的裏工作をしたとして無期懲役で後に減刑されている。

松本清張は安藤大尉の思い入れが強いような気がする。それは山口大尉と並べることによって、部下から信頼が厚いために事件の首謀者として関わりを持たないわけにはいかなかった悲劇が読み取れる。

二月二十五日夜

青年将校たちも一枚岩ではなく、それぞれの思惑があり、直前になって尻込みするものも現れた。それは西園寺元老院も暗殺リストに入っていたのだが直前になって外された。また財閥解体を目指していたので三井財閥の池田成彬も暗殺リストに入っていたが、北一輝と繋がりがあった為に外されたという。そういう裏では政治的駆け引きが行われていたのだが、安藤大尉の部下思いの一途さが脚光を浴びると共にいよいよ大勢は歯車として動き出す、その前夜の様子を詳しく述べている。


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