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砂を噛む砂時計の刑

「いや、ぼくが砂の例をもちだしたのは.........けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか.........砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない.........砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという.........どうも、上手く言えませんが.........」

「100分de名著 安部公房『砂の女』」第2回 〈揺らぐアイデンティティー〉

砂の家に落ちた男は、砂の女とコミュニケーションが出来ない。文化の違いなのか?砂のイメージも違う。ここでは女の方が生活者として熟知しているのだ。男は観念でしか砂を理解していなかった。

それで過去の思い出(同僚教師との対話)が蘇ってきた。しかし、ここでそれは無力な時間だ。男は腕時計で時間を知る。それは男が住んでいた文明化された時間だ。ここでの男の時間は砂時計の時間。

砂の家だけで二人しか出てこない不条理劇。まあ、外からの男たちはいるのだが、彼からは見えない。それなのに、内容は濃い。ストーリーテラーでもある。次々に起こる予想されない事態。それも対話劇で成り立っている。三点リーダーで砂の感じを出している。それが時間を現している。

言葉が動いている。その思考を「メビウスの環」だというのだけど、そういう堂々巡りを繰り返すのが人間で、ひっくり返してはまたひっくり返す、砂時計の刑。シーシュポスの不条理。

今読むとこれはカフカ『城』に匹敵する文学だ。

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