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寛容という上から目線は、キリスト教徒の優位性

『ジョン・ロック―神と人間との間』加藤節 (岩波新書)

自由で平等な市民社会の原理を探究し、民主主義の基礎を築いたジョン・ロック。啓蒙の時代を準備した「光」の思想家を歴史に位置づけなおすことで見えてきたのは、「神なしではすますことのできない」宗教性と、「影」を色濃く帯びた思想的挫折であった。自由、道徳、寛容、知性……人間にとっての基本的価値を根底から見つめなおす。

新書にしては難解だ、という感想が多いのは、やっぱロックの思想がヨーロッパのキリスト文化に根ざして展開されているからだろうか?むしろキリスト教という「神学パラダイム」の中で展開された社会契約論はルソーのものよりも整理されているように思える。ロックが日本でもてはやされたのは丸山眞男『ジョン・ロックと近代政治言論』で終戦後の新たな日本の民主化として「社会契約論」「立憲主義」「自由主義」という国家形成論として広まったがキリスト教的なものは問われず非宗教的に展開された。

ルソーの『社会契約論』からイギリスでピューリタン革命の上に築き上げられたロックの思想の翻案だと見るべきだろう。ロックの社会契約論の最終審判は「神の意志」であり、それをルソーは「一般意志」とすることによってより市民社会へと近づけた(無論そのための問題もあるが)。ピューリタン革命がキリスト教(カトリック)大国であるフランスからの独立を求めた闘争の場としてロックの思想もフィルマーの「王権神授説」(君主が絶対権力をもって自然権を服従させる)との闘争だった。

『統治二論』は政教分離することで為政者は「現世的利益」の政治を、「魂の救済」は宗教家へ。為政者は暴政になることを前提として、だから人間の魂まで管理することは許さない、それは宗教家の役目であり、また宗教家も政治と一体化すると民衆を全体主義の方向へ(十字軍とか)煽りかねない。そして異教徒への寛容を示すことでキリスト教への合理性精神を育んでいく。そこに知性があるはずだと。ただロックの『人間知性論』は挫折するのだ。どうしても神を超えるわけにはいかない。

そこで未完に終わった知性から新たにイエス信仰の道へと戻っていく。このへんは魂の救済を求めて神の啓示を受ける。その証明として神の奇跡があるはずだ(そこで理性が同意する)。それを聖書の中のイエスに求めた。

「自分たちの敵を愛すること、自分たちの憎むものに尽くすこと、自分たちを呪詛する者に祝福を与えること、意地悪く自分たちをあしらう者のために祈ること」

さらに、ロックが黄金律として求めた『マタイの福音書』の言葉。

「だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことはすべて、そのようにあなたたちも彼らにせよ」

例えばアメリカの独立宣言がロックの影響という肯定的な側面ばかり強調されるが、そこに植民地主義の正当化(「異邦人(先住民)」もキリスト教へ改宗(契約)させる。ロックの寛容を示さなくてもいい人というのに無神論者がはいるのだった。それを合意するような側面(ヘイトクライムの問題)もある(ポスト・コロニアル派からの批評)。

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