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ベンヤミンを写経するということ

『パサージュ論(一)』 (岩波文庫)ヴァルター・ベンヤミン, 今村 仁司 (翻訳), 三島 憲一 (翻訳), 大貫 敦子 (翻訳), 高橋 順一 (翻訳), 塚原 史 (翻訳), 細見 和之 (翻訳), 村岡 晋一 (翻訳), 山本 尤 (翻訳), 横張 誠 (翻訳), 與謝野 文子 (翻訳), 吉村 和明 (翻訳)

一九世紀パリに現れたパサージュをはじめとする物質文化に目を凝らし、人間の欲望や夢、ユートピアへの可能性を考察したベンヤミンの畢生の労作。断片の集積に潜む「あり得たかもしれない」世界の模索。(全五冊)

極めて実践的な本であると思う。中学生が流行歌をノートに書き留めるように、写経したことはなかっただろうか?尾崎豊、ユーミン、ビートルズ。誰でもいいのだが、ポップ・ミュージックの歌詞がその時代の一過性の流行として過ぎ去ってしまう中で、彼らは何かをつなぎとめようする。それがベンヤミンの『パサージュ論』なのだ。

あるいは三蔵法師がインドへ行って多くの仏教経典を写経して持ってくる。宗教的な経典は、キリスト教でも仏教でも、写経を通じて伝えられたのではなかったのか?ベンヤミンはユダヤ教のトーラーの方法をマルクスにつなげたのかもしれない。それは、消費という価値喪失の中で痕跡を残すこと。物神的な、それはまがい物かもしれない、しかし彼に取ってはその時に残しておきたい言葉であったのだし、それをパサージュという形の遊歩道で展示していくのだ。バッタもんかもしれない。海賊版であることは確かなのだろう。

それはベンヤミンがパリの国立図書館で探し求めたガラス玉のきらめきかもしれない。しかしベンヤミンはそうした言葉から19世紀の痕跡としての夢を紡ぎ出していくのだ。そして、筆写することで彼は目覚めていようとする。眠っていては筆写はできないのだから。それはシュールレアリスムの方法であると言われる。出会いの偶然性と恣意性。書き留めることは恣意的な行為なのだ。何かわからぬことでも、そこに何かが感じられたのだ。

毎朝、ベンヤミン『パサージュ論』から抜書きしてみる。それは勉学で役立てようとかなしに、ただその言葉が気に入ったからである。中学生の頃のあの歌詞を書き留めたときのときめきと言っていいかもしれない。それによって毎朝が落ち着くことが出来たようである。写経が祈りとなっているような。他の本でもやってみるが、ベンヤミン『パサージュ論』ほど効果があるものはなかった。傾向が似ているのか。

マルクス的に言えば消費社会に於いて、このような言葉を集めることは万人に知を伝えていく作業でもある。ある時代に消えてしまったかもしれない言葉なのだ。それが再び輝きを持って展示される時、誰のものでもない言葉が彼らの中で回遊するのである。そして、その言葉が痕跡を残して伝えられて行くならば新たなもう一つ別の神話世界を形作るのかもしれない。

概要 パリ──19世紀の首都

「新しいものは、商品の使用価値から独立した質をもつ。それは、集団の無意識が生み出すさまざまな形象には譲り渡すことのできない仮像の輝きの源であり、モードが抱くことなくその代弁に当たる虚偽意識の精髄である。この新しいものの発する光は、鏡が他の鏡に移るように、絶えず同一なるものという」(『パサージュ論(一)』「ボードレールあるいはパリの街路」)
「オースマン(パリ改造を遂行したセーヌ知事)の都市計画の理想といえば、長く一直線に伸びる道路による遠近法的展望であった。これは、技術上の必要事項を芸術上の目標設定によって泊を付けようとする十九世紀に再三認められる傾向と対応するのもである。市民階級による世俗化・宗教的支配のための諸機関を、街並みの枠内に取り入れて、自らの讃歌を歌わせようとしたのであった。」(同書「オースマンあるいはバリケード」)
「モードは、商品という物神が崇拝されるべき儀礼を定める。グランヴィルは、日用品に対しても、宇宙にたいしても、モードの支配を拡大する。極端な結果をもたらすまで、モードの支配を徹底させ、モードの本性をあらわにする。モードは生きた肉体を無機質な世界に結びつける」(同書「グランヴィルあるいは万国博覧会」)
「ブランキがこの本(『天体による永遠』)の中で展開する宇宙観は、その素材を機械論的自然科学から借用しているのだが、やがてそれは地獄のヴィジョンであることを明らかになる。(略)われわれが進歩と呼んでいるものは、各々の地球に閉じ込められ、同じ狭い舞台の上で、同じ悲劇(ドラマ)、同じ舞台装置である。」「この希望のない諦観こそ、偉大な革命家ブランキの最後のことばである。世紀は、技術的な新しい潜在性に対して新たな社会秩序をもって応ずることができなかった。そうであるからこそ、これらのファンダスゴマリーの中心にあり、人を惑わしつつ新と旧を仲介するものの勝利となった」(同書「結論」)

『シン・ウルトラマン』批評かと思った。

A パサージュ、流行品店、流行品店店員

「産業による贅沢の生んだ新しいこれらのパサージュは、いくつもの見物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石が貼られている。(略)光を天井から受けているこうした通路の両側には、華麗な店がいくつも並んでおり、このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている。」(同書、「A パサージュ、流行品店、流行品店店員」)

B:モード

「新しいものは、商品の使用価値から独立した質をもつ。それは、集団の無意識が生み出すさまざまな形象には譲り渡すことのできない仮像の輝きの源であり、モードが抱くことなくその代弁に当たる虚偽意識の精髄である。この新しいものの発する光は、鏡が他の鏡に移るように、絶えず同一なるものという」
「モードは、商品という物神が崇拝されるべき儀礼を定める。グランヴィルは、日用品に対しても、宇宙にたいしても、モードの支配を拡大する。極端な結果をもたらすまで、モードの支配を徹底させ、モードの本性をあらわにする。モードは生きた肉体を無機質な世界に結びつける」
ここではモードは、女と商品の間に──快楽と死体の間に──弁証法的な積み替え地を開いた。モードに長く仕えているないまいきな手先である死は、世紀を物差しで測り、節約のためにマネキンを自分で作り上げ、自分の手で在庫一掃をはかろうとする。このことをフランス語では「革命(レヴォリューション=回転)と言う。」(ベンヤミン『パサージュ論「B モード」)

C:太古のパリ、カタコンベ、取り壊し、パリの没落

「パリのシャトレ監獄には地下牢があった。(略)この地獄のような墓場で彼は何をしていたのか。墓場でできること、つまり死に瀕するのだ。地獄でできること、つまり歌うのだった。......隠語のシャンソンのほとんどすべてはここで生まれた。」(ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』「地下のパリ」)

D:倦怠、永遠回帰

「エミール・タルデューの奇妙きてれつな本『退屈』(1903)の主要なテーゼは、人生には目的も根拠もなく、人生は幸福や釣り合いの取れた状態を無駄に求めているだけだ、というものであるが、この本では倦怠の理由のさまざま事情のうち天候が挙げられている。──この本を二十世紀の祈祷書の一種と呼ぶこともできるだろう。」
「いくどもいくども同じ機械的工程が果たされているだけで、いつまでも終わりなく続く苦しい労働の陰鬱な単調さはシジフォスの仕事に似ている。労働の苦しみは、疲れ切った労働者の上にシジフォスの岩のように何度も何度も落ちてくる。」(エンゲルス、マルクス『資本論』)


E:オースマン式都市改造、バリケードの闘い

「パリはその居住者にとって大きな消費の市場であり、広大な労働の現場であり、野心がぶつかり合う闘技場であり、また逸楽の出会いの場所でしかない。彼らの故郷ではない」「パリの社会を市民としての心をまったく持たずに、真の漂流民として過ごしている者がいる。」「集権と秩序の国フランスにおいて首都がその自治行政の組織にかんして、ほとんど常に特例的制度下に置かれてきたのは驚くべきではない」(ジョルジュ・ラロンズ『オースマン男爵』)

オースマンは吹き溜まりになる貧民街を大通り化することによって、風通し良くすることでパリに蔓延している革命という疫病を追い払おうとした。そこにナポレオンが凱旋として、軍靴が響くパレードが行われていく。

都市計画が長く留まれる憩いの場を作らないのは、そこで戯れて反権力の企てをするのを恐れているのかもしれない。大通りを通して、人の居住地を流通の場にすること。消費の街にすることで利権を得る者たちが高層ビルの最上階に暮らすのだ。

F:鉄骨建築

「現代というところの鉄とガラスのすべての建築物の根源は、温室なのである。」(A.G.マイアー『鉄骨建築』)「パサージュはプルーストの描く世界の象徴である。奇妙なことに、パサージュは、この世界とまったく同様に、その根源において植物の存在に結びついている。」

G:博覧会、広告、グランヴィル

「商品世界のこのような物神的性格は、商品を生産する労働のもつ独特な社会的性格に発している。.........ここで事物同士の関係というファンスタスマゴリー的な形態をとっているもの、それはもっぱら、人間自身の特定の社会関係にすぎない」(オットリー・リューレ『カール・マルクス』)



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