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ドン・キホーテの「前編」の遍歴を批評する登場人物たち。

『ドン・キホーテ 後篇1』 セルバンテス , (翻訳)牛島 信明 (岩波文庫)

ドン・キホーテの狂気は大きく様変りする.もはや彼は自らの狂気に欺かれることはない.彼の目にも旅籠は旅籠,田舎娘は田舎娘でしかない.ここにいるのは,現実との相克に悩み思索する,懐疑的なドン・キホーテである.

大江健三郎『憂い顔の童子』(ドン・キホーテ「憂い顔の騎士」からのパロディかと思われる)を読んでドン・キホーテに興味を持ち、前編は『ドレのドン・キホーテ』という簡略版で読んだのだが(それだけでも十分面白かった)。後半は正規版の翻訳に切り替え。どれが正規版かは問題であるのだが、特にこの「後編」に限って言えば贋作が問題となっていた。

ドン・キホーテの解説本やら批評を読んでみても「後編」がメタフィクション的で面白いのだと言うのは『ナボコフのドン・キホーテ講義』でも言及されていた。

大江健三郎の「晩年の仕事」も『ドン・キホーテ後編』のようにメタフィクション的リライトとリリディーグの技法で書かれていたりするのだった。工藤庸子『大江健三郎の「晩年の仕事」』に詳しい(この本もなかなか読みきれないが)。

後編は『ドン・キホーテ前編』が書かれた10年後に贋作も出たというので新たに書き直されたメタフィクションとなっているのは、その贋作の話も『ドン・キホーテ』がアラゴン人の手によって書かれそれを翻訳したのがスペイン人である著者(セルバンテス)としているのだが、すでにそのアラゴン人のヒントは「前編」にあるらしく、ナボコフは「前編」からこのアラゴン人が書いたとしているのだが、それは後編になってはっきり語り手が出てきたことであって、前編では作者については厳密には書かれていなかったと思う。そのことが『ナボコフのドン・キホーテ講義』では混線しているように感じた。それを前編からやっていたのではかなりすごい小説だと思うが、前編は田舎の郷士が騎士道物語に熱中しすぎるあまりに現実と物語世界が区別できなくなった喜劇で十分面白い話なのだ。

後編のメタフィクション的なところは贋作が出てきたから、その贋作の登場人物とドン・キホーテを戦わせたらという可能性が出てきて、実際にドン・キホーテを倒したという人物が出てきたりするのだが。ここで正確には前編では郷士であったのだが、後編では騎士の姿としてドン・キホーテが再登場してくるのである。

その遍歴前(前編の最後で大怪我をしその治療のため家で静養している)の姪との対話や、サンチョ夫婦の対話で前編の遍歴が総括されて批評されていくのである。またドン・キホーテを本で読んだという郷士が現れて、本の書かれてあることと実際の話しを照らし合わせたりするのだ。その過程でドン・キホーテの遍歴を止めようとする学士カラスコが扮する仮面の騎士が森の騎士となってドン・キホーテに闘いを挑むが負けてしまい逆に復讐心からドン・キホーテのライバルとなるのだった。

そしてなんとこの後のライオンとの勝負も不戦勝でいきなり2連勝するドン・キホーテは「憂い顔の騎士」を返上して「ライオンの騎士」を名乗るまでに強くなっている。

また遍歴の騎士の語りは旅の者を引き付けてやまない話術も身につけており、恋の仲介から恋の指導までするドン・キホーテなのであった。それに横槍を入れるサンチョ・パンサもドン・キホーテの批評家としてなくてはならない存在になっていた。

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