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雑記 15 / 子育てのキャッチャー

我が家には小学生がいる。愛おしき我が息子、今は二年生。
一人息子相手に「子育て」などと言うのもおこがましい。何億回と繰り返されたクリシェだけれども子どもから学ぶばかりの日々だ。それでも我々は親をやらなきゃいけない。それでもなんとか体裁をつくろいながら親にならなければいけない。親であり続けねばならない。
この自分の未熟さを考えると、子どもの頃はもうちょっと粘ればあれやこれやのワガママはもっとなんとかなっただろうな、と思う。

子どもと暮らしていると、まるで小学生だった頃をやり直しているような気がする。あの頃感じてた理不尽はこれだったのか、とか。うまくいかなかったこれは、納得できなかったあれはこういうことだったのか、と俯瞰してしまう。社会人としての自分と、親の視線からの正しさと、子どもの視点からの理不尽が交差する。「そんなところが似てしまったか…」という部分もあって、すまないなぁという気持ちもありつつ、彼の抱く苦しみや、システムへの我慢ならなさも手に取るように分かる。どう手を差し伸べるべきか戸惑う。僕はあの頃どんな風にして欲しかったんだろう?果たしてそれをすることは彼にとって本当に良いことなんだろうか?

まるで昔の自分を見ているようでも、あるいはまるで自分が小学生時代をやり直しているような気分になったとしても、現実に今小学生を過ごしているのは彼自身で、それは彼自身の人生であり、他の誰のものでもないのだ。当然、親である僕や妻のものではない。
だから彼が直面している問題は彼自身が向き合うべきで、僕が先回りして解決してはいけない。躓くべきなのだ。ちゃんと転ばないといけない。その時に手を差し伸べるしかない。怪我をすることが分かっていても。

そういえば、シンディ・ローパーの熱心なリスナーではないけれど、『Time after time』だけはとても好きだ。

If you’re lost you can look and you will find me
Time after time
If you fall, I will catch you, I will be waiting
Time after time

素敵なリリックだ。中学生の頃に初めて耳にして「なんて良い曲なんだ」と感動したけれど、歌詞を読んで、そんな風に言ってあげられる相手は自分にはいないじゃないかと驚いた。
そこからYouを探す思春期が始まったのかもしれない。その記憶は定かではないけど。孤独の形に触れるきっかけではあった。

今は妻子はもちろん、そう言ってあげたい相手が周囲にたくさんいる。ありがたいことだ。そんな風に仕事をして暮らしている。身体も時間も足りないくらい。ほんとにキャッチしてたら骨がもたないくらいに。すごく幸せなことではないか。ハードワークもポジティブに捉えられる。
何より息子だ。彼は勝手にやっていけように、僕はキャッチできるように。お互い鍛えないといけない。ライ麦畑から落っこちないように。

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