コラム「昨日読んだ文庫」色川武大著『怪しい来客簿』

(毎日新聞 2016. 3. 6. 朝刊に掲載)

色川武大の『怪しい来客簿』(文春文庫)をほぼ二十年ぶりに再読する。やはり、べらぼうに文章がうまく、べらぼうに心の一点が弱い。その弱さは多くのひとに共感を得られる種類のものではないが、それはちょうど、他人の毒素を体内に射込み、自分の毒素と中和させることで、ようやく生きていけるような弱さである。

同書の『たすけておくれ』という掌編中の「私」は、胆石をこじらせて入院する。執刀予定の「名医」について、「私」はこんな印象を抱く。「とにかく彼は、対人関係だけでなく、すべてのことに慣れず、慣れようともしていなかった。その結果、中年に達しながら、まだ自分の楽な姿勢をみつけていない。妙ないいかただが、そこを私は信頼した。」

「名医」の手術に問題があったのか、手術後、病状は悪化する。「名医」は悩み、眠れなくなるが、再手術をどうしても言い出せない。その様子を見ている「私」は「なんとなく嬉しい」気持ちになる。「名医の誘導で大学病院の内科に行き、『どうして、こんなになるまで放っておいたのだろう』といわれたが私は驚かなかった。それでこそ私の名医である。仰々しくいえば、私は命を賭けて友人を得ようとしているかのようであった。」

ここにある「私」の精神性は、「優しさ」の一語では表せない。そこには、きわめて扱いづらい、ずるさや粗暴さが同居しており、一体となったそれらが色川による世俗のしのぎ方の中核をなしている。そのあたりの事情については、穏やかに、そして明け透けに、『うらおもて人生録』(新潮文庫)において語られているし、阿佐田哲也名義でのギャンブル小説にも、ときにそれを読み取ることができる。

私は今、色川の著書を以前のように頻回には読めない。上で述べた精神性は彼のどの著書にも浸透しており、それは私に、何年も前に捨てたはずの手紙が送られてきたような恐怖を与える。これはもちろん、色川の著書が私の古層の重要な一部を占めているということだ。

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