見出し画像

本当の意味での多様化って

最近ずっとニュースだけじゃなしに色んなとこから某ウィルスの名前が聴こえてくるけど、何が嫌だって、みんなが一斉に同じことへ意識を向けていること、そしてそれに意識を向けさせようとするのが本当にキツイね。同じ気持ちの人はいませんかね?

ウィルスというとその多様性と進化がこと人間以上だと私は思っていて、いかに人間は共存していけるかと、私は小学生のときから考えていました。一番最初に興味を持ち始めたのはエイズウイルス。あれを知ったときの脅威はいまだに忘れられなくて苦笑してしまいます。

今でこそ、死なない病となったわけですが、ウィルスは人間よりずっとずっと恐ろしい。そういう認識でした。変な話それを体感しているかいないかで、感染症への共通認識は天地の差があると私は思います。故に、ウィルスとは私達人間が生まれて死ぬまでの悪役を買って出てくれている存在なのだと思うわけです。

ウィルスそのものの多様性と進化の速さについて、人間は勝てるわけもありません。負け戦なのですね。根本にはきっとその思いがあって、それが不安を煽っているようにも思えたりします。

多様化した生き物は、同一性を持つものよりも、生き残りやすいんですよね。ある遺伝子をターゲットにしたとき、多様化していない場合はほぼ全滅。まさに多様化は生き残りをかけた手段です。この宇宙の見えない世界で、遺伝子レベルでのそんな進化の物語が日々起きている。すごいなぁ、わからないことばかりだなぁってすごく感じますよね。

ここ10〜20年くらいの流れの中で「多様性」っていう価値観が前に出てくるようになってきました。これはジェンダーレスであったり、身体的多様性であったり、様々な個の違い、個性について「多様性」という捉え方をするようになったと同時に「どんな人も平等であるべき」という単一性を強調するための手段でもあったと捉えられますね。

そうなると、ウィルスの多様性と比べると明らかに多様化に見えて多様化ではなく、むしろ同一化するために多様性を容認していく流れであると感じられます。そのため、人類学的に偏っていくことで、同一ウィルスによるパンデミックも起こりやすい生態になってきていると言わざるを得ませんよね。例えばインフルエンザ、ノロウイルスなど…

話は変わりますが私は自分の苗字が、旧姓だった年数と結婚後の苗字とが今年で丁度半分になることに気付きました。19歳で結婚したので、旧姓がまる19年、結婚してから離婚後もそのままなので、苗字が変わって19年になるんです。ここにきて、私は自分自身が精神的にようやく成長したような気になったんですよね。ようやくです。幼さから少し抜け出せた!と嬉しかったですよね。大学にも行きたい!って心底今は思います。

つまり、普通の人が大体18〜19で大人という成長を得るところ、私自身、肉体的にはそうであっても、精神的成長は一般的より倍の時間がかかったという感覚ですね。この発見で私はストンとふに落ちたわけです。成長の度合いはまさにみんな違う。だからズレを感じてストレスになるのかもしれないと。成長の度合いがみんな違うのが当たり前であれば、ズレにストレスを感じること自体無いはずなのだから。これがどんどん知られていって、千人いれば千通りの成長速度があることを知れたら、と考えるとワクワクしてきた。

肉体的成長と精神的成長は必ずしも同時ではない。この論理が一般化していくとき、本当の意味での多様性が当たり前になり、多様性を強調することで同一化するような、人類学的退化は見られなくなると。一般的にはこうだ、という変な仕分けも無くなる。精神的に成人かどうか自体、人それぞれ成長のスピードが違う。だからこそその部分で人を判断するのは、多様化と真逆の道に入ってしまうのだと気付いたのでした。

いつか、多様化がごく当たり前になって、多様化という概念すら念頭になくなる時代がくると私は感じないではいられないのでした(^ ^)

この記事が参加している募集

私のイチオシ

もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)