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認知症という名の光。

丁度私が小学生とか中学生の頃、アウシュビッツやら三重苦やら、色々…持ち出してネタにする授業が多かった。ヘレンケラー、コルチャック先生なんかもそのひとつだった。

これは何かと言うと単純に「今平和です」ってことを表していたわけです。

人間て変な生き物なので、自分より苦労している人達をネタにして「私達は幸せですよ」という訳ですね。

広島長崎が世界から色々言われるのもその一つ。これっておかしいと思いますか?人としてどうなんでしょう??

まず立ち止まって見てみると

「???」て思うかもしれません。

でも勘の良い方はすぐ気付かれるんだと思いますが

「苦労をされた方々から学ぶ」

ことで、ただただ苦労した人ではなく、その価値がうなぎ上りなんですよね。

つまり私達の光になるわけです。

とはいえ、苦労したから偉いとかすごいとかでは決してなくて、単純に

学ばせて頂きました、ありがとうございます!

って人が、光へと引き上げてくれてるんですよね。

これって結局感覚的で抽象的すぎる話なんですけど、世の中ってそれくらい単純な世界なんですよね。

今鬱病とか、引きこもりとか沢山いて、本当に辛くて辛くて仕方ないんでしょうけど、その方々を、光に引き上げてくれる世界観て無いですよね(笑)かなしいけど。

だけどたぶん、それが無いから…自殺も減らないんだろうなぁーって、私思うんですよね。

認知症というジャンルがこれだけ持ち上げられているのは何故でしょう?皆認知症になりたく無いけど、なる可能性がある以上、他人事ではないからですよね。

でも単純に「やだー」とか予防云々言っても結局同じなんですよね、他の色々と。

介護のプロとか、認知症のプロとか色々言ってる人が沢山いますけど、それって

誰が決めたの?誰が話してるの??

という話で。いうなれば当事者がプロなんじゃないの?(笑)と私は思うわけで。

色々、やりようもあるし、対応策もあるでしょう。だけどそれは全て、当事者さんから学ばせて頂いたからこそのもの。

そこをなくして認知症だの介護を語るなんて

はっきり言って、傲慢ですよね。


そう感じるのは私自身がそうだったと思うところが沢山あったからです。

認知症の家族を持つ人達は本当に色々なおもいにがんじがらめにされていると思います。

それが全てではないよ、色々多角的に見てみませんか?そんなことを言ったところでたかが知れているんですけど、でも

正直私は最近思うんですよね。色々な利用者様がいましたけど、学ばせて頂いたことは本当に消えないし、間接的でも、他の利用者様の光になっていると。

介護士は黒子である。

光のバトンを繋ぐ黒子なのだ。


もしも、自分の家族が認知症になっている方々が、どうしようもなくやり切れない思いを抱えているなら

少しでもそんな黒子に委ねてみませんか?

どんな人でも、光になっていける。それがこの世界の良いところですから(^ ^)






もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)