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依存心と介護

介護という言葉の意味は、障害者の生活支援および高齢者、病人の世話をすること。だから、例えば家族から世話をされている人は「介護を受けている」ともいえる。
でも、家族間においてその人にそういう生活支援が本当に必要なのかどうなのかをマネジメントしてくれる第三者というのは、ほぼ入らないといっていいかと。仮に入ったとしてもそれを受け入れられないかと。
実際、障害者や高齢者のケアマネジメントもその人自身の有りたい姿と、ご家族の希望が食い違う場合が多い。
で、今回はなぜそういう食い違いが起こってしまうのかという話。

そもそも私たちは、幼い時に育ててもらって今がありますよね、誰しも。
生まれてこのかた、誰のお世話にもなったことなく生きてきたなんていう人間はいない。
余談だけど花も動物も、万物はこの地球に育てられて育まれているわけで、すべては生かされているんだろうなって、漠然と思えるわけで。
さらに言えば私がある方から教わったのは、心臓を動かしてもらって、呼吸をさせてもらって、生きることができている。それに感謝できないなんて傲慢だ、ということ。
そういう話がなぜか、宗教的概念としてとらえられにくい性質があるのも、なんとなく人間は依存して生きることが好きな生物だからなんじゃないかとさえ思えたりもする(笑)

話を戻すけど、結局だれかしらのお世話になって生きている時期が
人生の中で何度かあるわけで、みんな。
それが全てにおいて、ものすごく重要な時期なんじゃないかと思うの。

人間て「依存する側」も「依存される側」も陰陽のようなものでお互いがどちらかだけでは成り立たない。だから依存される側は、依存されることで自分自身を容認できたり、自分自身の価値を構築することを求めている。
依存する側も、誰かからのお節介で自分自身を容認できたり、価値を構築する。
そしてどちらにも共通しているのが「もう片方からのアクションで自分を創り上げてる」ということ。

この共依存サイクルというものが、いかに自分自身を見失うサイクルなのかはここでは触れないことにして、そのサイクルのなかで生きてきたことによって、片方が片方をコントロールという名の支配をしていくようになる。
それは大体当り前というか自然な流れで起こっていくから、全く気付かない場合がほとんどで、ヒトラーの支配なんかもそんな風にしてさりげなく進んでいって、それがいつのまにかああいう結果を生み出すようなことまで成し遂げられてしまう。
共依存はこの地球で当り前に存在しているものだけれど、当たり前すぎて全く話題に上らないのかもしれない。

で、一番身近なサイクルとしていうと、「親子関係の共依存」ですかね。
単純に親が子供を支配しているとなる場合、共依存状態になっていることが大半。しかも親はそれを支配ではなく「愛だ」という。
この流れを感じてもらえばなんとなくわかってもらえるのではないかな?
そう結局、親が子供を育てることで自分を容認し価値を構築する。そしてそれは子供への愛情そのものなのだ、と正当化する。
かたや子供の場合は親からのそれを受けていることから「自分はそういう人間だ」という偽の刷り込みをされてそれに依存しなければ生きていけないようになっていく。
そんな親子関係からのものが、恋人同士、また夫婦間へと続いていくことは言うまでもないのはわかってもらえると思うけれど。

人間として生まれて必ず誰かのお世話をうけている時期に、誰かの存在価値の構築のために、それを利用されてしまうということはあまりにありふれすぎていて、複雑な心境だと思う。ただ、重要なカギはやはり思春期になるんだろうなと。
その時期に出会う人たちでもって、その後の自分をどうしていくのか?を
自分で選択するようになる。自分はそういう「世話」を受けて生きてきたんだ、ということを「嫌だ」と思うようになるかもしれない。かたや「そういう生き方が楽だし」と思う人もいる。
「嫌だ」と思う人は結局、また共依存先を探すだけになるんだけど。
「そういう生き方が楽だ」という人はそのまま親なり誰かに依存して生きていくようになるけれど、
「相手からのそれをうけるために、自分を殺して相手の要求に答える」
これが一番厄介かなと思う。

そうなってしまった場合、自分自身の本当の想いを「共依存」のために見て見ぬふりをしようとするわけで。結局その人の周りにいる人は自分を認めたいから依存させようとするわけで、その人自身のおもい、要求なんかは関係ない。ただ、自分に依存させたいからという理由で、相手の本当の要求を利用することは多いけどね(笑)
大概こういう状態にある人たちは、これじゃまずいねって気付くときもあるんだけどだからどうしたらいいのかわからなくなるまでになっている場合が多いよね。そう認知症になっていくのも、私は今まで偽の自分を構築してきたからだと思っている。病気なんかも、そういう原因が関与していると。
がんになったり、性別によって慢性的な疾患があったり。自分自身と向き合うことを、もっと早い段階で知るべきだと思うしそうしたなかで生きていくことが、人間としての本当の存在価値になるんじゃないかと私は思う。

共依存状態のなかで構築されている価値は、その範疇外の人からの客観的意見に対しては「お互いが満足しているのだからいいじゃないか」となる。
だけど「自分のために相手に依存させながら、相手のためだと思い込むこと」も、「自分のために相手の依存を受け入れて偽の自分を構築していくこと」も、「対自分」ではなくて「対他人」であって、
そんな関係性が「自分自身のケアマネジメント」をする際の食い違いの原因なんだってことがわかるのではないかと思う。

もっとわかりやすくこの関係性を表現できるようになっていきたいな。
とりあえず今日はこの辺で。


もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)