東京五輪とか夫婦別姓とか

今日のニュースは、
東京五輪に特別枠ができて、お偉いさんはオリンピックを見て楽しめるってこと、
夫婦別姓を違憲として最高裁迄行ったけれど、棄却されたこと。

情報は早くなって、
今まで知るはずのなかったことまで耳に入るようにはなったけど、
根本的な所が変わったわけではない。

私たち普通の人が帰れるのはせいぜい、
家族や恋人、友人の今日の夕ご飯の献立くらいで。

だったら知らない方が幸せに生きれたのかな?

誰もいない大きくて立派な祭壇の中で、
特権階級の一部の人に対して、
大勢の一般人を犠牲にしてパフォーマンスが行われる。

そんなの変だっていう人もいるけど、
ずっと昔からの流れで考えたら、
偉い人がそれを違和感なく、自然に受け入れる事も、
それに反対する人達を耳障りな虫くらいに思うのも、
相当に普通のことだよね。

それを是と捉えて受け入れるのは、
もう知ってしまった以上看過できないことだけれど。


選択的夫婦別姓、よく聞くようになったのはここ3年くらいな気がする。
前の職場では事務方の女の子たちと、
素敵な苗字の男子(名簿をさっとみるだけで500人くらいいた)を探す遊びをしていたから。
小学生の頃から恋をすると相手の苗字と自分の名前の響きを調べたりした。
私の家族は「か」で始まる名前が多かったから、
相場とか馬場とか、「ば」で終わる苗字は、「〇〇ば か〇〇」で、ばかになるから結婚したくないね~なんて話した。

それくらい、疑問にさえ感じない程に、女の子は将来苗字が変わる事は、
昼の後は夜が来るのとおなじくらい自然なことだと思っていた。

実際に自分の周囲の女の子が、
苗字を変えていって、SNSなんか見ていても、「誰だっけこの子?」と思うことが増えて、同時に選択的夫婦別姓が話題になって、
漸く、「女の子が苗字を変えなければいけない違和感」に気づいた。

どうしてだか昔から結婚願望が薄い。
失礼だけれど、専業主婦が夢だといって憚らない女性が苦手だった。
だから、どうしても自分事として、
わざわざ法的に結婚して、更に夫婦別姓を選択するという面倒に面倒を重ねる事への面倒さは遠ざけていて、きちんと考えていなかったのだな、と痛感した。

LGBTQとか、選択的夫婦別姓だとか、
自分に関係ないと思い間違える事も、
よしんば現在関係ないとして、何も考えてない事は間違いだとは今では思うので。

例えば、事務的な変更の繁雑性(夫婦別姓を選択するにせよしないにせよ)とか、東京五輪の国民負担だとか(東京在住東京勤務なのでなおのこと面倒には思っている)とか、考えたいな。この週末はそんなことを思えたらいいな。メモ。

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