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本を読むなら、同様の経験に変換したい。

個人的な経験からしても、小学や中学時代にはそもそもお金の余裕もなかった。歩いて行ける範囲、自転車で行ける範囲に本屋さんもなかった。

だから、月始めにおこずかいをもらって欲しい本を父親に頼む。僕にとってそれは当時300円と少しのコロコロコミックだった。財布はすぐにすっからかんになって、あとは翌月までひたすら同じ本を読んだ。でもその頃に出会ったキャラクターは今でもはっきりと覚えているし、自分に非常に大きな影響を与えたものとして特別な愛着を感じられる。

しかし、大人になった今はどうか。一度に数冊の本を買い、ザッと速読してしまったような本がいくつもある。中にはほとんどまともに覚えていないようなものがあるが、これは無駄であるという以上に、なんとも寂しい。

今後何年生きられるかはわからない。だからこそ読むべき本は選びたいし、せっかく読むからには少しでも人生に影響を与えるような本を選びたいものである。自分だけの趣味に固執し、今の自分を肯定してくれるばかりを読んでいては、ますます自分の世界を狭めてしまうのではないか。

タイムパフォーマンスが叫ばれるこの時代だが、作家の平野啓一郎さんは、著書「本の読み方 スローリーディングの実践」の中でこのように書いた。

本当に読書を楽しむために、「量」読書から「質」の読書へ、網羅的な読書から、選択的な読書へと発想を転換して行かなければならない。

本の読み方 スローリーディングの実践(平野啓一郎)

さらに平野さんは、「速度家の知識は単なる脂肪である」とも説明する。1ヶ月に本を100冊読んだとか、1000冊読んだとか言って自慢している人は、ラーメンの大食いチャレンジで15分間に5玉食べたなどと自慢しているのと何も変わらない。と。

確かにそうかもしれないと思った。
「俺は100冊読破した!」と言われるよりも、「俺はあの本のこの一説に感動した!」という方が、単純にかっこいいし、その続きをもっと聴きたくなる。読書においてもたった一冊のたったワンフレーズであっても、それを噛み締め、思い耽り、その魅力を語れる人の方が、読者として知的な栄養をたっぷり吸収しているはずである。そう考えると、「速読の知識は脂肪である」という表現が妙にしっくりくる。

僕の場合、速読はビジネス場面で多く用いる。明日の会議に向けて資料をさっと確認したり、要点に線を引いたりするような場面だ。あとは、エクセルのこの作業をしたいと言ったような辞書的活用の場面で速読が活躍する。とはいえ辞書的活用は、今では「ググる」に置き換えられてしまったが・・。

速読を「明日や今この時のための読書」とするなら、スローリーディングは、「5年後、10年後のための読書」と表現できるだろう。今日、明日の人生に即効性があるわけではないが、長い人生で見たときに、間違いなく人間的な厚みを与え、教養を授けてくれるのだろう。僕が尊敬するのは、もちろんそういう人だ。

本を読む理由は、単に教養のため、あるいは娯楽のためだけではない。人間が生きている間に経験できることは限られているし、極限的な状況を経験することは稀かもしれない。本は、そうした私たちの人生に不意に侵入してくる一種の異物である。それをただ排除するに任せるか、磨き上げて、本物同様の一つの経験とするかは、読者の態度次第のようである。


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