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ソバニイルヨ🤖

仕事柄、年に何回か、亡くなった人のことを思う瞬間がある。

「みんな、あっちで元気にしてるのかなぁ」と、そんな風に、、、。

亡くなる場面に接することは多い方だけど、顔や名前は思い出せない。

例えば一週間前に搬送した方であっても、それは同様だ。

意図的に覚えないようにしているのか、それとも一生懸命で余裕がないのかはわからないが、その瞬間の状況や感情は意外にも頭に残っていたりするから不思議だ。

現場は2階。
玄関までのアプローチは石段で狭く階段も肩幅よりちょっと広い。
一階までの搬送は苦労した。
そして玄関での救命処置。
喉頭展開が難しく時間がかかったよね。

みたいに。

その人生一つ一つに想いを馳せていては、仕事は長続きしない。だが、仕事で出会った人たちは、どこかふんわりと僕の中に残っている。

それは、怨霊ではなく暖かく包み込まれているような感じ。

思い出そうとすると、その人たちは待っていましたと言わんばかりに現れ、いつの間にか去っていく。風のようだ。

反対に、仲の良かった人たちはシルエットが浮かび上がる。

消防士で救急救命士。10個上の先輩。笑顔で叱るし、意味なく叩く。それが彼のスタイル。僕は先輩をお兄さんのように慕っていた。

「またしょげてんのか⁉️ばーか‼️」今でも先輩はそう言う。

そして、痛いような痛くないような、ちょうどいい力加減でお尻を蹴ってくる。ほんとに蹴られた気がするから不思議だ。

そのようにして、僕が関わった人たちは、いつも僕のそばにいてくれる。運がいいのか僕の人生はまだ続いている。消防士としての仕事も。
彼らはまるで僕の応援団のようだ。先輩は応援団長だな。きっと。

喜多川泰著「ソバニイルヨ」の中で、「水で考える死」という話が出てくる。
「生物のほとんどが水でできている。」
「空気中にも水が見えないけど含まれている。」だから、死んだあとも大切な誰かは君のそばにいるというのだ。

顔や名前を忘れても、瞬間の風景や感情が色濃く残ることは奇妙ながら自然なことかもしれない。仕事仲間も同様で、一緒に過ごした時間や共有した瞬間が心に深く刻まれている。

特に、仲の良かった先輩の存在は鮮烈で、彼の言葉や仕草が今もなお響いている。その先輩が応援団長のように、仲間たちは優しく包み込んでくれる。

「ソバニイルヨ」

そう。仕事での出会いや経験が続く限り、亡くなった仲間たちはいつもそばにいてくれるのかもしれない。

その思いは僕を支え、仕事に対する力となっている。運命に導かれるように未だに続く仕事。

それはまるで、先輩が言うように「またしょげてんのか⁉️ばーか‼️」と、厳しくも優しく促してくれるかのようだ。

彼らの存在はまるで水のように不可欠で、僕の人生を今も支え続けている。

みんなありがとう。
先輩いつもありがとう。

ソバニイルヨ (幻冬舎単行本) https://amzn.asia/d/dtjlGPm

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