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サングラスの世界 (短編小説)

近頃は外出する時サングラスをかけるようになった。白内障の手術を受け六〇年以上酷使してきた目を保護する意味もあってのことだ。散歩の途中で出会う店先の旬野菜が瑞々しい彩りを見せ公園の木々が色づきながら移ろうのを遮光レンズの薄いグレー越しにしか楽しめないのでは一体何の為の手術だったのかと自分で可笑しくなる。行きつけの酒屋ではいつものように店主の奥さんが忙しなくしていて、床に置かれた酒瓶のケースを持ち上げては裏へと運んでいる。襟元の緩い服を着ているので酒瓶のケースを持ち上げようと前屈みになるたび膨よかな三〇代人妻の丘陵がサングラス越しに揺れる。歩き疲れ公園のベンチに腰掛けると足元に小型犬が懐いてくる。「こら、すいません人懐っこくて…」飼主がしゃがんで家族という名の畜生を撫でまわす。履いているスカートが奇跡的な捲れ方をして三〇代人妻の神秘がサングラスの真正面に鎮座する。

街は眩しすぎる。
私は湖に浮かぶ小舟が渡るのを遠くから眺めて暮らしたいのだ。

年の瀬の騒めきの中、どこからかファルセットのような甲高い歌声が聴こえた。外国の歌?声のする方へ行くと、街頭で四人の白人少年がソプラノボイスを聴かせている。讃美歌だろうか、ウィーンの澄んだ冷気が舞い降りるように天使の歌声は響き、少年の頬は赤らんで吐く白い息が立ち昇る熱海の湯煙を思わせる。歌声が止むとまばらな拍手が起き、横に立つ髭の男が少年たちへ各々募金箱を渡す。箱には合唱団を支える会と書いてある。何人かの熱心な女性が結構な額を入れるたび、少年たちは無垢な笑顔を見せる。髭の男はしきりに箱の中身を数えてはずだ袋に放り込む。楽しげに女性らとやり取りを続ける少年の瞳が灰色のレンズに映る。きっと本当は淀みなく、衒いのない、意思を持たないビー玉みたいな色をしてるのだろう。私は足元の落ち葉を一枚拾うといちまんえんと呟き募金箱の中へ落とした。

アパートに戻ると歪んだ窓の隙間からひゅるりららと冷気が忍び寄る。讃美歌の詩を火に焚べればあったかいだろうか、宝くじは買ってくるのを忘れてしまった。サングラスの世界で私は何も見ていないふりをする。

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