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なぜ海外に行くのか。異差を求めて。

20歳のときにイギリスにワーホリしてから海外にステイすることに楽しさや意義を見出し、ワーホリの使える30まではなるべく海外に住もうと漠然と思い、実行していると20代のうちの約6.5年は海外で過ごすことができた。

海外に行き、まだ自分の見たことのない景色、風景、生活をみるのは単純に好奇心や冒険心からのこと。
そこで思ったのが自分が海外に行く最大の理由は日本のマインドセット、常識から距離を取って検討することが出来るなということでした。

人間は環境と習慣的な意識に知らず知らずの間に考え方などが固定されていってしまう。それが集約化されていったものが常識と呼ばれるような世間の支配的な価値観になっていますが、その環境真っ只中にいるとそれが不変のものであるかのように、それに対してなにも疑問をもたなくなってしまう。

けれど国が違えば、環境も異なり環境が異なれば常識やルールというものが変わってきます。そのとき感じる「異差」が自分にとって旅をする際に何よりも大事な観点だったと今になって思います。

アインシュタイン『常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう』

常識というのは時代・環境・場所によって大きく異なってくるもの。

今まで自分が常識として当然のように受け入れてきたことは他の地域では全然違っているという当たり前のことをしっかりと認識するこは大事なステップとなった。

自分が今まで何も疑問も持つことなく受け入れてきたこと、その常識を捉え直し自分の性格や生き方に合わせて最適化するのが旅や海外に滞在する最大の目的だったかもしれません。

かなり極端な話なのですが、例えばインドに行くとトイレにトイレットペーパーがない。
そこでそうするかといえば、トイレに設置してある容器やホースを使って左手で洗い流し清める。
これは日本、現代社会にに住んでいる我々からしてみればとても信じられないような生活習慣である。
しかし、インドに暮らし実践してみるとトイレットペーパーを使うよりも快適で経済的だということを実感した。
この体験を得たことで極端な話、自分はこの先トイレットペーパーを一生買わなくても済むという道を選ぶこともできるようになった。

これはたとえ話ですが、海外で生活していく上でこのように生活を検討していくような機会を得ることが出来たと思う。
話だけ聞くのと、実際に体験し、目の当たりにするのでは天と地ほどの、絶対に超えられない壁がある。
聞いたり見ただけだとすぐに忘れてしまうが、体験したことは魂に刻み込まれる。

常識というのは、違った目線で見れば「観念の牢獄」と言えるかもしれない。そこにあるのが当たり前過ぎて、自分に合っているのか、世界規模で考えたとき正しいのか?と検討することもままならない。

日本の常識と世界の常識、両方に触れることにより「異差」を感じることが海外に出ることの一番大きなポイントであったかもしれない。

今になって思うのは、日本という国は常識に雁字搦めになっている場所だということ。そして多くの人はその常識から抜け出すのをとても恐れている。
山下陽光さんがこのインタビューの中で似たようなことを仰っていたが、自分としてはこれからの時代、常識から抜け出しつつ生きていく方が幸せになれるような気がしてならない。

時代はガンガン変わっているのに、守る必要のない前時代のルールに縛られているなぁと思うことが多い。とにかく前列に習って、既得利権のようなものを守りたがる。責任を取りたくないマインドで自分では判断しない無責任さが蔓延っている。

しかし、常識から抜け出すのは容易なことではないのかもしれない。物事の価値判断をいちいち自分で行っていたら大変だし、大多数という方向に乗っかっていればまず、周囲とは別の判断にならないし安心を得ることが出来る。

日本人の団結力は素晴らしく、常識が良い方向に左様しているうちは社会は明るいのかもしれない。
しかし、もし常識が良くない方面へ舵が取られたら社会はどうなっていってしまうのか……
空気を読み合っているうちに沈没してしまうのではないかと心配になります。
今現在が、常識を再検討する世の中に差し迫っていると感じているのは自分だけではないはずだ。

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