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安心感は侮りに似ている。

半年ぶりに家族のもとに帰省した際、私は、あのカンボジアの鼻を刺すような独特な香りに、えも言われぬ安堵感と、充足感を感じた。
日頃の疲れを癒していくような、心安らぐその空間で、時間だけがゆったりと過ぎていった。
私は確かに、家族という存在に安心感を感じていた。

人はどんな時に、安心感を感じるのだろう。

家族、友人、仲良しグループ、学校、推し…….
たぶん、人は誰かと時間を共有することで、安心感を求め育む。

誰しも、ひとりで生きていけない。



私が2023年の締め括りとして読んだ「汝、星のごとく」は、両親の恋愛に振り回され続ける主人公の、離島での生活を描いた物語だ。
中盤、恋人をおざなりにした主人公に対し、恋人の不満が爆発してしまう場面がある。
彼は、一連の言動を信頼しているが故であるとし、裏切られたと、その不満を吐露する。


「その感情は信頼ではない、侮りなのだ。」


また最近、友人関係に関して、相談を受けた。
「私は数学が得意じゃない。前の学校でも習ってこなかった。なのに、その子は…… あなたと私はスタンダードが違うって………..」

寮生活。
24時間ほぼ毎日、寝食を共にし、厳しい学業を共に乗り越える。彼らは仲間であり、家族だ。

しかし、相手が気にしているもの、大切にしているもの、それを踏み躙る、そのラインは決して超えてはいけないと思う。

信頼、侮り。

この点を履き違えず、区別して認識出来ている人は、相手の尊厳を傷つけず、不快にせず、上手く人付き合いができる人なのだと思う。

でも。相手を貶したり、軽口を叩くことで、仲の良さは深まっていくのだから、皮肉というか、なんだか難しい。


寮生活という閉鎖的な空間の中で、日常を共有していると、その人に見えなかった部分が垣間見れて、温かい気持ちになる時もあれば、どうしようもない嫌悪感に駆られる時もある。

多様な人間が生きる社会の中で、リスペクトの精神を確立するために、私に何が出来るだろう。


多様性は「違い」だ。分かり合えることはない。それが多様性だ。親しくなっていく中で、そんな違いの数々に抵抗感を抱く時もあるだろう。違いを、分かろうと努めることは大切だが、同時に、理解し合えなくても良いのだと思う。
何より重要なのは、そこで攻撃的にならないことだ。批判的であることは、相手に自分を理解してもらうことを強要することと等しい。それも一種の侮りであると、私は感じている。

分かり合えないこともある。
それを皆が理解し、念頭に置き、その違いを尊重出来るようになれば、世界はもっと温かいものになるのではないだろうか。


私も、安心感と侮りを、履き違えた経験は数えきれないほどあると思う。特に家族に対しては。(迷惑かけてるなぁ〜、ほんと。)

出会いと仲間を大切に。当たり前だと思わずに。
大切に、毎日を生きていきたいな〜。


……… やることが大量にあるのに、また書いてしまった笑
課題頑張ってきます!!!

ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。
皆様の毎日が穏やかな幸せで満ち溢れますように。


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