私の人生に意味はあるのだろうか?

私の人生に意味はない。私にはこのことは疑いえない真理であるように思える。ちょうど、「我思うゆえに我あり」が私にとって疑いえない真理であるのと同様に。


なぜ私の人生に意味などないと確信できるのか。それは「意味がある」という言葉の使い方を考えてみればわかる。

例えば、スマホは私にとって意味のあるものだ。私はスマホがあるからこそ家族や友人と連絡を取ることができるし、世界のニュースにアクセスすることができる。つまり、スマホは私の人生において、人と連絡を取ることを可能にしたり、情報を集めることを可能にしたりする役割を果たしている。そのような役割を果たすもの、これが私の人生にとってのスマホの意味だ。

つまり、ある物事の私にとっての意味は、私の人生においてそれがどのような役割を果たすかによって与えられる。


では、私の人生そのものについてはどうか。たちまち概念的な不整合に陥ることがわかるだろう。私の人生が私の人生においてどのような役割を果たすか、なんてのは全くナンセンスな問いだ。

詰まるところ、何かに意味があるとか意味がないとかは、私の人生の中の物事について使う言葉であって、私の人生そのものをあたかも私の人生の中の物事かのように扱って、それに意味があるとかないとか論じるのはカテゴリーミステイクなのである


カテゴリーミステイク」という言葉が出てきた。これについて理解するためには、少し遠回りになるが、「存在」の問題を例として考えてみれば良い。

りんごは存在するだろうか? ペガサスは存在するだろうか? 龍は? UFOは? これらは当然に有意味な問いである。では次の問いはどうだろう。

存在は存在するだろうか?

こんな問いが全くナンセンスであることは明白だろう。「存在」そのものに「存在する/しない」を当てはめるのは間違いなのだ。これこそカテゴリーミステイクである。


同様のことが私の人生の意味についても言える。

先ほど言ったように、何かに意味があるとか意味がないとかは私の人生の中で生じる諸々の事物について使う言葉であって、私の人生そのものをまるで私の人生の中で生じるもののようにして、それに意味があるとかないとかいうのは全く無意味、言葉の文字通りの意味で無意味なのだ

ゆえに、私の人生に意味はない。ただし、この「意味がない」とは、意味がある/ない、という区別における「意味がない」ではなく、そもそもそのような区別が不適切であるという次元での「意味がない」である。

もう一度「存在」の例に戻れば、存在は存在するか、と問われたら、存在しない、と答えるほかないだろう。しかしそれは、存在する/しないという枠組みを当てはめるのがそもそも不適切であるという次元の「存在しない」なのである。

このような意味で、私の人生に意味などない。


では仮に神が私の前に現れて、お前の人生はエベレストに登頂するためにあるのだ、それこそがお前の人生の意味なのだ、と言ったらどうだろうか。

私はこう応えるだろう。

それは神にとっての私の人生の意味であって、私にとっての私の人生の意味にはなりえない。なぜ神にとっての私の人生の意味が、私にとっての私の人生の意味となるのか、と。

神が私の人生を意味づけようとする時、私の人生は神の人生(神生?)の中で生じる出来事となっている。しかし、そのように捉えられた私の人生は、もはや私が意味づけようとする私の人生ではないのだ。なぜなら、私が「人生」という言葉で言おうとしているのは、私の人生について語るその神の言葉すらもまた私の人生の中の事象として解するほかない、そういうもののことだからである


詰まるところ、どんな事象が起きたとしても、それは私の人生の中のことだとしてしか理解できず、そして私の人生の中で起きた事象が、私の人生を意味づけるなんてことは全く不可能なのである。

仮に、私の人生の中の事象が私の人生を意味づけたとしても、その意味づけ自体もまた私の人生の中の事象として理解され直してしまう。そのような理解の枠組みとしての私の人生はどこまでも意味づけを逃れる

これは、超越論的な掟だ。すなわち、そもそもどんなことがあれば私の人生に意味があると言えるのか、それがわからないのである

だからやはり、私の人生に意味はない、と言わざるを得ない。


以上、私の人生に意味はない、ということを論じてきた。私はこのことを強く確信している。

しかし、この議論が当てはまるのは他ならぬ ”私” の人生についてだけである。他の誰かの人生については、それは私の人生の中の事象であるのだから、それが私にとって何らかの意味を持つということは当然ありうる。

となると当然ひとつの疑問が浮かぶ。このこと、つまり私の人生に意味はないということを誰かに向かって語ることはできるのだろうか

もしできないのだとしたら、私は全く無意味なことを語っていたということになるだろう。そしてそうであるべきだ、とも言いたい。

私の人生の無意味さもまた無意味なのだ。