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短文練習【逃げ水、逃げろ】

「逃げ水。嘉数くんみたい」
 道も焼けるくらいに暑いのに水たまりがあるなんて変だな、と思うでしょう。本当かなって。でもそれって確かめようとして追いかけても絶対に追いつけないんだって。似てる。
 夏の風物詩になぞらえて笑った時、アリスはもう別れることに決めていたんだろう。今になって宏樹はそう考える。当時、単純に歩く速さのことを言っているのかと勘違いしたのは、置いていかないでとよく言われていたからだ。彼女とは身長差が20センチ以上もあって歩幅もだいぶ違ったから、よほど気を付けていないとはぐれそうになることも多かった。そういう時、彼女は細い指で宏樹の腕をつかんで訴えたのだ。待って、置いていかないで。振り返るとちょっと拗ねた顔をしていて、その瞳の強さがとても愛おしかった。
 嘉数宏樹といいます。高井アリスさん、付き合ってください。そんな風に交際を申し込んだのは高校生の時だった。きっかけはたまたま同じ委員会になったこと。うるさい輩をまとめ上げててきぱきと議長を務める彼女を見て、ろくに話したこともないのにすぐに好きになってしまったのだ。小柄だけど強くてかわいいスーパーガール。誰にでも気さくで快活な彼女は少しひねくれた少年にそういう夢を見せてくれた。それである日そっと呼び出して。
 不躾な告白を聞いた瞬間、気の強さが鳴りをひそめて恥ずかしそうに頷いたのが印象的だった。伏せられた睫毛。日に透けて揺れる髪の色。足元にできた影までわずかに震えていたように思う。あの夕方の踊り場の光景はきっと生涯忘れることはないのだろう。
 彼女は3年間、宏樹のそばにいてくれて、突然に消えていなくなった。嫌いになったんじゃないの。でももう一緒にはいられません。あんなにはきはきした娘だったのに別れるときは書き置き一枚だった。それは今も捨てられずにノートに挟んである。高校時代の物理のノート。どうしてだか、そこが彼女に似合いの場所だと思えていた。
 西日の強い交差点で汗を拭いながら信号を待つ。通りの向こうには赤レンガの駅舎が見えていて、多くの人が行き交っていた。もうじき自分もあの中に溶け込んで大勢の中の一人になる。実体のない逃げ水。むしろそれで支障がない。
 車の流れが止まって信号が青に変わった。一歩を踏み出そうかというその時に、宏樹はふと足を止める。
 待って、置いていかないで。
 低く柔らかい声が耳をくすぐった。すがるように食い込む華奢な指の感触も。あの頃のように振り向いて引き寄せたい衝動が、胸の底から顔を出す。
 あともう少しで夜になろうというこんな時間。アリスは今でも訪れる。愛おしく、芳しく。だから宏樹は心を強く持って、独りで進んでいかなければならない。
 不思議の国に迷い込んだ少女と同じ名前を持つ彼女は、もうこの世のどこにもいない。それは本当に悲しいことではあるけれど。
 好きだ好きだと幼い呟きを奥歯ですり潰し、しっかりと自分の歩幅で宏樹は歩く。逃げ水は決して捕まらない。それもまた、彼女がかけてくれた魔法だった。