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中東が好きになったのは何故だろう - 周りにあった中東

振り返えってみると、自分の身近にあった中東は こんなものだ。

父は、ガソリンなど油売りの会社の専務だった。中東戦争でも、我が家は灯油に困ることはなかった。

戦争で満足な勉強をしなかった父は、自分が教えられない「英語」を心配し、私を塾に行かせた。その塾は、抜群に英語の成績がよい子を生み出していて、私もその中に何とか位置し、大学は英語専攻。

就職活動で、私の頭のなかは、商社一択だった。その理由がなんと中東だ。
イラン、イラク戦争のさなか、物資を運ぶ商社の新聞記事を読み、私は感動した。こんな風に役立てるなんて、すごい!
「商社で貿易」というのは、当たり前のように私の頭の中に存在していて、就職は、商社。配属先は、機械輸出部門だった。

そこではサウジアラビアとの取引が開始されていたが、私は中東でなく、アジア地域担当の事務補佐をする。
サウジアラビアのバイヤーが来日した時、子供が4人、夫婦、合計6人が高級ホテルのスイートルームに泊まっていて、子供を迎えにいった当時の先輩が、スイートルームの豪華さを 目を見開いて話していた記憶がある。

このサウジアラビアとの取引を開拓した当時の課長は、数年後、部内組織変更で、私ともう一人の女性先輩二人を部下とし、”女性にも営業を!”と掲げたのだ。多くの男性に反対され、バカにされながら、課長は私たち二人をトコトンカバってくれた。しかし、とにかく、厳しく優しかった。 先輩が中東担当、私はアジア担当。時差がないアジア。売上伝票など回すものなら、すぐにお呼び出しがかかる。  ”こっちが急ぐ仕事なのか?” 売上伝票を回すことで、少し息抜きをしたかっただけでした。とは言えない。笑
残業もあったので、事務は土曜日に出て処理するしかなかった。

この商社を辞め、(営業が嫌で辞めたのではない)、一年半ほど派遣社員で 大手メーカーの貿易部門に努めた。ここでもアジア圏担当事務をしていたが、中東担当者とアジア担当者が仲良く、よく皆で食事に行ったものだ。
この派遣先の中東担当者が、後に私が勤務する先で、中東との交信をするときの、大師匠になってくれる。
食事をし、愚痴から始まる私の話を うまく救い上げ、中東との付き合い方を、明るく、ブレなく話してくれる。月に一度、3時間は話したと思う。
この方が、ドバイやサウジの駐在で行かれても、手紙のやり取りは続いた。
大嫌いだった中近東が嫌いではなくなるのは、この師匠のおかげだ。


父、イラン・イラク戦争、商社の課長、メーカーの中東担当者、中東に呼ばれていた?かのように、私は、最後の勤務先で中東担当、そして責任者?として長年中東を学ぶことになる。

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