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【短編】えらばれる

 どんよりと厚い雲の下、ねっとりとまとわりつくこの時期独特の水分と生臭さをたっぷりと含んだ空気の中で、僕はこの町のシンボルである桜の木を見上げていた。

 花の季節はとっくに終わった桜の木。もったりとした風に揺られサワサワと揺れる葉を纏う桜の木は、彼と一緒に見たあの軽やかな花で埋め尽くされていた木と同じものだとは思えない。そう感じるのはこの空気のせいなのか。色のせいなのか。密度のせいなのか。それとも今、僕の隣に彼がいないからなのか。


「今年は誰が選ばれるんだろうね」

 あの日、満開の桜の木を見上げ、ひらひらと舞い散る花びらを順に目で追いながら彼は眩しそうに目を細めてそう呟いた。

「さぁね」

 僕は地面に腰かけ、空を舞う花びらを見上げながら興味なさげに答えた。でも本当は今年誰が選ばれるのかということに興味がないわけではない。むしろ毎晩寝不足になるくらい悶々とそのことについて考えている。彼だって僕の目の下にあるクマが日に日に濃くなっていっていることに気がついているはずなのに、まるでその事実と僕の対応が何一つとして関係していないかのようにこう言った。

「ほんと、君らしいね。でも君はもっと色々なことに興味を持つべきだよ。僕は誰が今年選ばれるのか本当に気になって気になって仕方がないのに。去年やおととし。その前に選ばれた彼らの顔を思い出しては、今年は誰が選ばれるのか予想してみるんだけどさ。誰が選ばれても不思議じゃないっていう結論にいつも落ち着いてしまうんだ。だから、誰が選ばれるのか、早く知りたくてうずうずしているよ」

「選ばれるのがもし自分だとしても?」

 僕は隣に座っている彼に顔を向けて尋ねてみる。
 誰が選ばれるのか。それを知ることができるのは誰かが選ばれてしまった後のこと。それに、選ばれたことのない残された人間にはいつ彼らがそれを知ったのかを知ることはできない。一日でも早く。そんなことを言ったとしてもそれが可能かどうかなんて知らないけれど。

 彼は顔を舞い散る花びらに向けたまま、目を輝かせてこう言った。

「あぁ、もちろんさ。もし今年僕が選ばれるんだとしたら、今すぐにでもその事実を知りたいと思っているよ」

「そんなもんなのかな……」

「そりゃそうだろう。年に一人。たった一人だけ選ばれる。この村で最高の栄誉。それに選ばれたくないやつなんているわけないじゃないか。まさか君はそのチャンスに恵まれたくないとでもいうのかい?」

 あまり乗り気ではない僕の反応に彼は勢いよく僕のほうを振り向くと、目をぎょっと開きながら『ありえない』とでもいうように眉間に皺を寄せた。

「いや。まあ。そんなことはないけど……」

 もごもごとそう口にした僕の言葉に少しほっとしたような表情を浮かべた彼は、ますます輝きを帯びた目をして桜の木を見上げた。


 この時期の村の人間はみんなこうだ。常軌を逸しているような。あえて言うなら気が違っているかのような。隠そうとしても隠しきれない異様なほどの気分の高揚。なにが基準で選ばれているのかすらわからないのに、選ばれることが村の栄誉だと伝えられ、それを心の底から信じ込んでいる。

 でもこの時期が終わればみんな元通り。この時期だけ。この桜が咲き誇っている間だけ村に充満するこの狂気じみた空気は、誰かが選ばれたその日、桜が身に纏っていたすべての花を脱ぎ捨て、選ばれしものをいただくのと時を同じくしてこの村から消えてなくなる。

 言いかえるなら、花がすべて散った桜の木のてっぺんに突き刺さった死体として、選ばれた人間が発見されると村は正気に戻るのだ。
 
 はっきりいって僕はそんなものに選ばれたいだなんて一度だって思ったことはない。桜が満開になるにしたがって村全体が盛り上がっていく中、僕だけがどんどんと盛り下がっていく。でも熱狂している人たちの中で、あからさまにそんな態度を見せてしまえばよくない結果が待っているに違いない。それくらいは僕にだってわかる。

 だから僕は普段から感情をあまり外に出さないように気を付けて生活しているのだ。この時期にふさわしい盛り上がりをしていなくても、目に狂気をそれほど宿していなくても、そこまで異質なものだと思われないように。

 そのおかげでこの時期に彼らのような状態になっていなくても、僕は僕なりの狂気を帯びているのだろうと周りの人間は認知してくれている。だからこそ僕はこの時期にうっかりと村に立ち寄ってしまったよそ者たちのように、池の底で魚につつかれたり、山の中で虫にかじられたりという目に合わずに今まで生きてこられたのだ。


「あぁ。今年は誰が選ばれるんだろう。選ばれるのが僕だったらいいのに」

 ある年、彼は選ばれし者のみが到達できる場所を見上げ、うっとりとした目をしながらそう口にした。

「あぁ。うん。」

 僕はそれに対してあいまいな返事しかできなかった。


 どうしてそんなに選ばれたがるのだろう。選ばれるということは、この桜の木に貫かれてしまうということなのに。誰一人として触れられない高い場所で不自然な格好のままたくさんの血を流し、村を見下ろし続ける。そして翌年の桜のつぼみが付く頃に、誰にも気付かれることなくひっそりと跡形もなく消え去ってしまう。そんな役割に。

 今年も選ばれませんように。

 僕は毎年、村の空気が変わり始める頃から心の中で祈り続ける。彼らが選ばれますようにと願うのと同じ強さで。


 そして今年、ついに願いは叶った。

 壊れた人形のような形で桜の木のてっぺんに突き刺さった彼の表情はまったくといって見えなかったけれど、僕には彼がとても満足そうに見えた。

 自分こそがやはり選ばれた人間だったのだ。と。

 それに加え、眼下に広がる村の風景や村に住む人間たちの日々の生活を、選ばれなかった人間どもの哀れな姿なのだと彼は感じ、見下ろしながら優越感に浸っているのだろう。そう僕が思うのは、彼が昔から僕と二人っきりでいるときにだけそういったことをよく口にしていたから。

「毎日くだらない。本当にくだらない。僕は本当はこんな場所にいるべき人間じゃないとおもうんだよね。君だってそう思うだろ?誰もができることを僕はできないってみんなは馬鹿にするけれど、僕から言わせればそんなことが出来たからってなんだっていうんだよ。出来る人間がやればいい。ただそれだけのことだと思わないかい?どうして全員が全員、同じことを同じ手順で同じクオリティでできなくてはいけないという理由があるんだ?逆に考えてみると、他の人と違うってことは『特別』だということなんだよ」

「なんで僕が選ばれないんだと思う?去年のあいつも。おととしのあいつだって。なにが基準で選ばれたというんだろう。そもそも、彼らよりも僕が選ばれるべきだったと思わないかい?確かに表面的に見れば、僕は何一つとして秀でたところなんてないだろう。でも、ずっと一緒にいる君ならわかるだろ?僕はそんな評価されている通りの人間なんかじゃないんだよ。だから今年こそ僕が選ばれるとは思わないかい?」

「僕が選ばれる前に君がもし選ばれることになったとしたら……。いや、そんなことは想像するだけでも虫唾が走る。だめだ。いや、でも。もし。もしもだよ?僕より先に君が選ばれることになったとしたら、その権利を僕に譲ってはくれないだろうか。譲れるかどうかはわからないけれど、でも、君が選ばれたとわかった時点ですぐに僕に教えてほしい。頼む。頼んだよ。君ならばこの、僕の気持ちが痛いほどわかってくれているだろう?」


 彼は栄誉を手に入れたがっていた。それが「ちっぽけだ」「くだらない」と吐き捨てるように口にし続けた、この村や村の人間から与えられるものだったとしても。そして、それが自分の命と引き換えだったとしても。

 そしてついに手に入れた栄誉。彼は今、とても満足しているのだろう。

 桜の花が咲くこの時期にだけ、正気ではいられないくらい村の人間が欲する栄誉。しかしそれは、桜の花が散ってしまえば村の人間の中からは消えてしまう。

 その年に選ばれた人間のことも。選ばれることのすばらしさも。目の前の緑色の葉が茂る桜の木に、かつて薄いピンクの花が咲き誇っていた様子を重ねてみてもなんだかピンとこないのと同じように、年に一度たった一人だけ選ばれるという栄誉は、あの季節が過ぎ去ってしまえば、なんだか遠くの国でかつて開催された祭りのように、どこか曖昧で夢物語のよう現実ではないもののようなものなのだ。

 でも、彼は幸せなのだろう。

 僕が村の熱狂を感じられないままだったのに対して、彼は桜の花が咲いていない、村人たちがその存在を忘れ去っているかのように過ごしている時期ですらこの桜の木に。いや、選ばれること。栄誉に魅了されていたのだ。一年を通して彼のように選ばれることに固執していた人間を僕は誰一人として知らない。

 だから彼は今、とても幸せなはずだ。

 羨望のまなざしを受け止める身体がなくなってしまったとしても。
 選ばれること。栄誉は本当に存在しているのかという事実がわからなかったとしても。


 僕は今日、この村を出ていく。

「さよなら。僕は君が欲しがっていたものから遠く離れて生きていきたいんだ。だから行くね。さようなら。」

 そう口にした瞬間、僕の頬を生ぬるい風が撫でた。

<終>

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