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各自の「見方」、それが「世界」なんじゃないかな?(3660文字)

各自の「見方」、それが「世界」なんじゃないかな?
ということについて書こうと思います。

「世界」は視点主の数だけある、ということ。

外部世界をどう見るか、という視点主の「見方」こそが世界。

同じ世界を生きていても、Aさんにはそこが天国に感じられ、Bさんにはそこが地獄に感じられる。
この場合、同じ大地に生きながら、Aさんは天国を生きていることになり、Bさんは地獄を生きていることになる。

――ここで突然、バシャールの話になります。

バシャールってご存じですか?

僕は、実はあまり「存じ上げていない」のですが、バシャールさんは宇宙人であったかと記憶しています。

バシャールさんは言ったのでした。

確か2012年――だったかそのくらいの時期に、人々はめいめい、「別々に枝分かれして」違う世界を生き始める……とかなんとか。

でもって、「枝分かれした現実」を生きながらも人々は、なおしばらくの間、互いに交流を為し得るのであるけど、しかしやがて分岐した線路は互いに互いから遠ざかり、別の現実を生きている者同士は互いの現実への行き来ができなくなり、ついには意志疎通すらもはかれなくなる……とかなんとか。

分岐する現実世界?

例えば、

Cさんたちは、核戦争で滅亡してしまうような悲惨な世界を、

Cさんたちの住む世界?

Dさんたちは、全自動運転車でご機嫌なドライブを楽しめるような愉快な世界を、

Dさんたちの住む世界?

Eさんたちは、久々に月面着陸を果たした同胞に拍手喝采を浴びせるような誇らしき世界を生き、

Eさんたちの住む世界?

互いに交わることはない……とかなんとか。

うろ覚えというか、理解がいい加減かもしれないのですが、まあだいたいそんなようなことを、十数年前に、バシャールという宇宙人(!)は、というかバシャールに体を使われたダリル・アンカとかいう人物は語っていた――というふうに記憶しています。

かつてこれを目にだか耳にだかして僕は思いました。

Cさんが生きている世界にはDさんやEさんはいないのか??

Dさんが生きている世界にはCさんやEさんはいないのか??

Eさんが生きている世界にはCさんやDさんはいないのか??

コミックス全巻に登場するひみつ道具すべてを知っていたり、登場キャラクター(←石ころのクロ、レベルを含む)すべてを知っている程度には『ドラえもん』(!)に詳しい僕だから、タイムトラベルにつきもののタイムパラドックスについてもある程度は知識があるのでありますが、だから、バシャールのいう「別々の現実」とは「平行宇宙」を指しているのかな……なんて感じつつ、同時にこんなふうに思うわけです。

すなわち、Cさんの宇宙にいるDさんやEさんはDさんやEさんのいわば分身ないしは影なのかもしれないけれど、だとしたら同時に、Dさんの宇宙やEさんの宇宙にもCさんの分身なり影なりがいるはずで、ってことは、もっともネガティブな宇宙からもっともポジティブな宇宙に至るまでのあらゆる宇宙にもれなくCさんもDさんもEさんもいるわけで、だとしたら、核戦争で滅亡しちゃう宇宙にも、全自動運転車で愉快に過ごせる宇宙にも、同胞が月着陸を果たして湧き上がっている宇宙にも、同時に、Cさんは、Dさんは、Eさんは存在しているわけで、であるならば、人々は「切り分けられ」たりはし得ないし、「別々の世界を」生き得たりもしないんじゃないかな……と。

っていうか、そもそも僕は、バシャール(という宇宙人さんや、ダリル・アンカという語り部さん)を信じているわけでもなく、多次元宇宙の存在を確信しているわけでもなく、「世界は一つ」とフツーに認識しているのでありまして、今現在この僕がいるこの世界なり現実なりが「核戦争で滅びちゃう世界」なら、他の誰にとっても世界は核戦争で滅びちゃうんだろうなって思うわけなのですが、しかし、冒頭に記したような『世界は視点主の数だけ存在する』という認識論的仮定の地平に突っ立っちゃいますと、なーるほど、バシャールさんのいう「別々の世界ないしは現実」ってのはこういうことを指しているのかもしれないな……という気付きを得るに至ったのであります。

ので、以下妄想を開陳しちゃいますね。

つーまりですね、

世界を憂しと哀しと思いながら見れば、その視点主はネガティブな世界の住人となり、

逆に世界を嬉し愉しと思いながら眺めれば、その視点主はボジティブワールドの住人になる

――という、超アッタリマエダノクラッカーな(って宇宙人の主張を形容するにはあまりに古すぎるフザケカタでふざけちゃえるような)ことをこのバシャールという宇宙人殿ははるばる彼方よりやって来て伝えてくださったっつーだけのことなんじゃありますまいか……と。

今。2024年が始まって間もないこの「現在」。

台湾の選挙結果や秋の米国の選挙予想なんかに照らしつつ大規模な戦争の危機なんて感得しちゃう視点主にとってはこの世界、あるいは「核戦争で滅びちゃいかねない世界」であるのかもしれませんが、しかし同時に、車産業の最先端において全自動運転車の開発に日夜専心している視点主さんにとってはこの世界、あるいは「最新テクノロジーにより切り拓かれてゆく期待に満ち満ちた世界」であるかもしれず、また同時に、航空宇宙局に入所して月着陸船の打ち上げに関われている若き視点主くんにとってはこの世界、「夢と希望に溢れたザ・フロンティアワールド」であるに違いなく、ことほどさように、同じ世界を生きつつも、視点が異なれば、世界に対する認識も異なり、『認識されたものが世界である』との考え方にのっとるならば、平行宇宙を仮定するまでもなく、世界は、人の数だけ同時に存在していることになるのではなかろうか……と。

でもって現代はインターネットの発達した時代でありますれば、かつてテレビが画一的な番組で視聴者を同じ世界観に導いてきた時代とは違って、各自が各自の主体性において、各自の興味のおもむくところのコンテンツを自由にチョイスできるわけでありまして、これゆえに世界はまさに、視点主の興味の持ち方に応じて「切り分けられて」存在しやすくなったといえるのではないか……と。

2012年――ってーと確かスマホが普及し始めたあたりですよね。各自が各自の手元に各自の窓を設け得るようになった時代。そこらで関心事の切り分けが行われ始め、時代が進むごとにその傾向にますます拍車がかかり、多様性が謳われ、尊重もされるようになり、いろんな価値観、いろんな生き方、いろんな見方が肯定されるようになった……と。

このことにより『認知される世界』は、同じ見方をする者同士だけにより共有されがちになり、見方の異なるグループとは考え方を擦り合わせる機会も減ってきて、ついには、物理的には同じ世界を生きながらも、互いに行き来することも、まあコロナ禍なんかもあり非対面の機会も増えてきたし(?)、ゆえに余計に少なくなってきたんじゃないか……と。

『興味を同じくする者同士に切り分けられた現実』を、もしかしたら確かに昨今の僕らは生きているのかな……と。

ふーむむ。

だとしたら

バシャールさま、

あなたは

わりと、

当たり前

というか、

そりゃそうだよなあ

みたいなことを告げるために遠路はるばる地球にお越しくださったのでありますね――。

だなんて、繰り返しになっちゃうほどに、すみません、思っちゃいました。

でも僕は、バシャールのこととかあまり詳しく知らないし、じゃあググれよ、って言われちゃうかもしれないけど、このnoteは、バシャール批判とかそういうことを目的としている訳じゃもちろんなく、ただ、『認知や認識が世界を、各自専用にカスタマイズするんだよなあ』という気付きをより面白く、印象的に表してみたかっただけなので、はい、ググったりもしないでこのままアップしちゃうのでありました。

バシャール研究家の方々や、なによりバシャール本人さまにおかれましては、無知ないち市民の戯れ言と思って……なんか間違ったこと書いてたら、ごめんなさい、ご容赦ください。

で、バシャールさんがおっしゃってたことで、とりわけ僕の印象に残ってるのは、先にも書いたように、『ポジティブ宇宙の住人とネガティブ宇宙の住人はしまいには互いに行き来も交流もできなくなる』みたいなことなんだけど、僕が開陳した妄想にいくばくかなりとも正当性があるのなら、どうなんだろ、

おおっしゃっ👊✨!

って『見方』を切り替えさえすれば、誰もが、いつでも、たちどころに生きられちゃうんじゃないでしょか?? どんな宇宙でも。どでしょか??

人は、見たいものを、見たいように見る。

だから

人は、生きたい世界を、生きたいように生きる。

ってまあそういうことでありましょうか。

生きたくない世界を生きてる人は、スマホのお気に入りを全部消去して、いったん目を閉じ、それから開けて、伸びをして、生きたい世界に、にゅにゅにゅーんと思いを馳せたらいいんじゃないか……と。

ふむ。

僕もそうしてみよっかな。

にゅにゅにゅーん🤩!

文庫本を買わせていただきます😀!