見出し画像

幸せは評価性(幸せについて考える①)

この写真は昨日載せた向日葵と同じ時期に撮った沖縄の桜。色々蘇る思い出深い写真です。それはさておき。

前回の話で人生は無意味だからこそ幸せになる覚悟をした的な話をしたんですけどその続きです。

幸せになることをすればいいけど、幸せって何を持って幸せ?という議論が自分の中でしばしば行われるのですが

幸せというものはって前もって決まってるわけでも、その時に感じるわけではない、すなわちその時間が過ぎ後からふと思い出し、後からその時間が幸せだったと評価するものだと考えています

しかし、この時間が幸せと自分で思い込みその時間を過ごすことでも幸せと評価できるでしょう。

自分も経験もあって、日本酒が好きと思いこんでいるので日本酒を飲んだ時は必ず幸せに感じるんですよね。経験や好みが幸せの時間を教えてくれるんですよね。居心地のいい時間を教えてくれる。それは前もって幸せとわかっていて日本酒を飲み、幸せと感じ、良い時間だったと評価する。

新しい経験や思考を通して幸せを見出し、それを体験することによってその時間は幸せだったと評価するパターン。その評価が積み重なり、ある行動=幸せという考えが起きるパターン。この2つが幸せを感じるパターンだと考えています。

だからこそ(よく言われることとして)年を重ねる毎に挑戦をしなくなる傾向があるのは自身の居心地のいい環境や時間がわかってくるからだと思います。

これを書いてて気づいたのですが幸せとわかっている時間が未来にあるとわかると今も幸せに感じるパターンもありますね。。。来年3月に日本1周行くのですがそれを考えると幸せに似たような感情を感じます。なんだこれは。笑(また考えてみます。)

まあでも言えることは幸せも主観の評価で良い、幸せというのも自分が決めることで決まっていることではないってことですね。

だからこそ自身の思考が大切って話ですね。本当に。
本当に決まっていることなんてないし、捕われるものなんてない。
しかし経験が幸せの時間を決めるように自身の経験や他人の経験(伝統とか)が思考を停止させる壁になったりするんですよね。

今日はここまでにして、次回に思考停止という敵についてアウトプットできたらなと思ってます。

いやああまだまだだなあ。もっともっと吐き出したいし、思考の過程もここに記していきたいですね。今日もビール飲みながらお疲れ様でした。