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自己肯定感で大切なことは全て「中田敦彦」が教えてくれた(2)

中田あっちゃんはそもそも子供の頃から”NAKATA”だった。
小学校のクラス委員長、応援団長、生徒会長を兼任していたという。
※2022 中田敦彦独演会https://youtu.be/-vDlhruON6I

さらに授業中は担任の先生を差し置いて壇上で持論を演説したり、体育祭で応援団長として他の生徒に担がせた神輿の中から登場したりと、もう既に「らしさ」全開だった。

ぼくはというと、小学校で既に早すぎる中二病体質を発揮していた。

ぱっと見ゲームやアイドルに夢中な子供なのに、一皮むくと「人は何故生きるのか?死とは?」みたいなことを延々と考える、そんな太宰治みたいな小学生はどう考えても不気味だっただろう。

唯一の救いは担任の先生に学級文集の文才を認められたことだった。
当時数多い生徒の中で、心の中にいる”内気でまじめな自分”と”カッコつけでワルな自分”の二者が対話するという形で作文を書いたのはぼくだけだったらしい。

先生が書いてくれた評は「おなかがいたくなるほど笑いました」だった。

今思うと、ここでも2つの正反対の性質が共存していたらしい。
前項で記した”孔子期”と”老子期”。
そして”内気くん”と”ワル”である。

そんな幼少期だったからか、ぼくはその後も常に頭の中での自己対話がエンドレスに続く立派な中二病青年になった。

ただ、そんな変わり者のぼくでも、神様は見捨てなかった。

モテ期の到来である。

高校時代はなぜか応援部の顧問に見初められ、高校野球の副応援団長まで務めた。
兼務の美術部では大型作品づくりもしていたため、後輩たちが隠れファンクラブを立ち上げたらしくバレンタインチョコもたんまりもらった。

さらに、当時流行っていたとある雑誌の投稿欄で常連だったので、あこがれの世界だった東京をはじめ、全国で自分の年齢よりひとまわり上の大人の女性が友達になってくれて、可愛いかわいいとちやほやされた。

一方、高校生時代の中田あっちゃんは初恋の影響でお笑いの研究に明け暮れ、成績はがた落ち、そしてはじめての失恋を経験していた。
※2022 中田敦彦独演会

ここだけで見ると、なんだ結局はお前も自慢かという妬ましい気持ちにもなるかもしれない。

ただ思い出してほしいのは、ぼくも大勢からチヤホヤされていただけで、恋人がいたり告った告られたの恋愛経験はまったくない、本質的にはあっちゃんと同じく恋愛は不慣れなナイーブバージンなのであった。

そんなぼくらに、転機が訪れた。

(つづく)

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