見出し画像

なぜニュースを見るのか

東京ポッド許可局「なぜニュースを見るのか論」を聴いて、いろんなことを考えた。

あらかじめ書いておくがこの文章はたぶんまとまらないと思う。ただ最近読んでいた本とかなんか印象に残っていたこととか、関連するなにかしらがこのラジオをきっかけにうっすら繋がりそうな感じがしたので、箇条書きみたいになるかもしれないけど、ちょっと書いとこうという感じだ。

私は2023年の年末ぐらいから𝕏(新ツイッター)をほぼ放置して某SNSに移住しているのだけど、この番組中でタツオ(敬称略)が言っている「知らない方が安寧に過ごせる」というのがまさにその理由のひとつだった。そもそも少し前からいろんな事情でテレビのニュースをほぼ見なくなってしまい、そうすると世の中の情報に触れるメインはネットニュースになるんだけど、その入り口になっていたもののひとつが新ツイッターたる𝕏だった。その入り口があまりにもなんというかろくでもなくて、もういいやとなったのであった。そういう事情なので、新聞やテレビのニュースと𝕏の"おすすめ"を同一視しているきらいはあると思う。それは正しい態度とは思わないが、いまの私にとってはさほど変わらないということだ。𝕏がどうろくでもないかはみなさんよくご存知だと思うのでここでは触れない。

番組中でも言及される『正欲』という小説(映画しか観てなくてごめんなさい)には「世の中にあふれている情報は、明日も生きていたい人、明日も生きている人のためのものだ」というような言葉が出てくる。不正確な引用だけど勘弁してほしい。意味はだいたい合ってると思う。明日死んでもいいと思ってる人にニュースや広告は不必要だということだ。そりゃそうだ。

また、マキタスポーツさんは子供たちとキャンプしたりしている満ち足りている瞬間にはニュースなんか関心もないと言う。これも真だと思う。
この世に絶望した人も、幸福の絶頂の人も、両方に不必要なもの。それがニュース。じゃあ誰のためのものなのか。そのどっちでもない人、ということなんだろう。それがマジョリティであると。

鴻巣友季子さんの『文学は予言する』という本に「アテンション・エコノミー」という概念が紹介されていた。これは情報そのものよりもそれに対する人びとの関心、注目度のほうが経済的価値を持つという概念で、インプレゾンビとか滝沢ガレソみたいな存在の根拠になっている考え方だと思う。マジョリティたるおれたちがニュースを見ることでインプレゾンビに金が入る。この世はそうやってできている。すなわち地獄である。
同じ本にイタロ・カルヴィーノの言葉が引用されていて、要約すると「時事問題のたぐいは自分がどこに立っているかをわからせてくれるもので、古典を理解するためには自分がどこでそれを読んでいるのかをわかっていなくてはならない」ということであった。「なぜニュースを見るのか」に対する超正しい答えだと思う。だが、カルヴィーノは𝕏の"おすすめ"欄を見たことがないと思う。
また「速度の速い正しさは怖い」という言葉も印象的だった。「上品というのは欲望に対する速度が遅いこと」だという立川談志の言葉を思い出した。

ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』には「誰かを責めたいという本能から事実に基づいて本当の世界を見ることができなくなってしまう」とある。人間には誰かを責めたいという"欲"がある。𝕏はそれを可視化しすぎている。

ドストエフスキーは『悪霊』の中で「火事というものを多少の満足感なしに眺められるものかどうか、ぼくはあやしいと思うね」と言っている。ニュースを、𝕏のおすすめ欄を眺める人間のまなざしというのは本質的にそういうもんなのではないか。

安部公房の『箱男』は「人はただ安心するためにニュースを聞いているだけなんだ。どんな大ニュースを聞かされたところで、聞いている人間はまだちゃんと生きているわけだからな」と言う。

今回も死んだのは自分じゃなかった。そうやって安心するために私はニュースを見ているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?