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『OPPENHEIMER』の感想。                      


Now we are all sons of bitches. (今や俺たちはみなクソ野郎だ。)

上記の言葉は本作の主人公であるオッペンハイマーと共にマンハッタン計画に参加していたケネス・トンプキンス・ベインブリッジがトリニティ実験後にオッペンハイマーに伝えた言葉だ。

本作はオッペンハイマーという人生に焦点を置いた作品だが、本作の本質はオッペンハイマーという偉大な物理学者を通して、科学者の功罪について描いている。

本作はどの視点からにも耐えうる圧巻の映像作品となっているが、正直、私としてはその点に関して語る事はさほどない。一つ挙げるとすれば、広島と長崎に原爆が投下される場面や、被爆者の描写が無いという所くらいだろう(正確にはオッペンハイマーの心理描写としてはあったが)。

本作においてこれらの映像が一切ないのは、"原爆を生み出した"という科学者側(オッペンハイマー)の視点に絞り、徹底的にフォーカスした、約3時間という長い時間をかけ映画だったからに他ならない。

作中でも描かれている様に、オッペンハイマーは原爆の投下をラジオで知った事からもトリニティ実験以降は彼の手から原子爆弾が離れていった事は明白だ。そして、この演出は、原爆の悲惨さを強調する日本的な文法や、原爆を美化するアメリカ的な文法を一切排除する事に成功していると私は思う。

話を戻そう。

本作はオッペンハイマーという人物の人生を三時間という長いようで、短い時間の中で描いた作品だが、彼の変遷が見事なまでのグラデーションを持って描かれていた。その中で、キリアン・マーフィーの見事な演技により、オッペンハイマーは厚みのある人物として捉える事ができるが、私が思うにオッペンハイマーは理科系の純粋な人間だった様に思う。

富野御大の言葉を借りるなら、「理工科系の馬鹿ども」の話がこの『オッペンハイマー』という映画だ。

これは科学者達が頭が悪いという訳ではない。現実問題として、科学者達の思い描くピュアな思考回路と、それを扱う人間(本作では政治家と軍人)の思考回路には大きなズレがある。所詮、科学者は科学的な思考でしか物を見れないし、軍人は軍事的な思考でしか物を見れない。政治家は政治的な視点に終始するだろう(無論、このような大きな主語で断じる事は映画を見た人でなくとも間違いだと思うだろうが、許して欲しい)。

言ってしまえば、畑の違いが悲劇の根幹とも言える。

つまり、発明する事のみに執着して、その発明の影響が抜け落ちてるのだ。SF的な視野が欠けていると言っても良いのかもしれない。それは、私も理科系の人間の端くれとしては理解できてしまうと同時に、それではいけないという実感もある。なんなら、そういう反省の上にある学問がある。

そして、その視点に立つと、作中でも言及されていたような技術の早すぎる発展に対する危機感は正しい様に私は思えてならない。理科系の人間の純粋無垢な夢想が、世界を滅亡に導くのではないかという危機感はある意味では正しいのかもしれない(最近の良い例としては、OpenAIなどによる指数関数的な人工知能の発展とかだろう)。

このように、本作はJ・ロバート・オッペンハイマーという人物の人生と、科学者の功罪を描いた作品のように私は思う。

本作は原爆という、日本人が最も知っているであろう兵器を別の視点から覗いた作品であり、この映画をきっかけに原子爆弾の議論だけでなく、科学に対する向き合い方に関する議論も活発となる事を私は願いたい。

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