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エッセイ“無記名の美“

無記名の美ということを考える。
それは、禅的な美かもしれないし、宇宙的な美と言い換えてもいいのかもしれない。

自然の前に人が立ち、美しいと感じた時に、美は生まれる。自然も美の形もそこにあったものかもしれないが、その前に立ち、心動かすものに出会わなければ、美は発見されない。

そして美の本質は、無記名なものであるのかと思う。命の根源に繋がっていく美。見かけは何ものからでも始まる美。ちょうど頂上を目指す山登りのように。そこには、名前がないのかもしれない。

私たちは、名ざせないものに不安を覚える。いや名指すことによって、わかり、ことによったら所有できるもののように感じる。

掴むことの出来ない概念は、共有することは出来る。時間を共有するみたいに。だが、風は所有できない。にもかかわらず、風にまで名前をつけて美を捕まえたくなる。

枯れ朽ちた冬の植物の形は、もはや生き生きとした色彩のある花や葉をつけてはいない。しかし、植物が、“私はかつて紫陽花であった“と言う必要は無い。植物の命の脈が流れ続けている。すべてが土に崩れ落ちてしまっても、そこには存在の無形の温床が残っているようにさえ感じる。それは対象は無記名の美であるが、その美を記憶する人間がいる限り、形なきものの残す記号の奥に、永遠に連なる時間の根へ繋がっていく。

川は名前がつく。しかし川を作るのは水の流れである。水は留まらない、風も然り。流れゆく形なき残照に名前をつける。美は表面にあるものの向こうに匂いたっている。

考えてみれば、ずっとあり続ける同じ形は自然の中には無い。夕焼けも美しい色を翻して行ってしまうのである。美の王宮に戻る、そんな感じである。移ろいゆくものの美。それは増減のない宇宙的な美。“その時“がすべてに通じている禅的な美、と思うのだ。

#エッセイ #現代詩 #詩

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