翔んで埼玉

勝とうとすると卑屈になる

 埼玉をディスるおバカ映画かと思いきや、差別問題を考えさせる作品だった。

 東京が埼玉や千葉との間に関所を設けているという、ラジオの空想ドラマ。東京の住民がなぜか偉く、他県民は差別されている。これが単なる空想ならお笑いですませられるが、東京周辺の県民にはこれに類する卑屈な意識がある。

 東京に住んでる人の多くは地方出身者で、埼玉や千葉、さらには茨城や群馬などより、とても田舎から出てきた人たちなのに、なぜか北関東の人たちは自分たちを田舎者だと、自虐ネタを口にする。東京から電車で一時間くらいの八王子も横浜も浦安も土浦も、地方出身者にしてみれば同じような東京近郊だ。東京から飛行機や新幹線で5時間もかかるような田舎者にしてみれば、みんな都会者なのに、そんな人たちが自分たちは田舎者だと言うのを聞くと、ふざけるな、と言いたくなる。

関東圏の人たちは、テレビニュースで東京のローカルニュースを見るし、東京の街歩き番組を見ては東京にあこがれる。遠い地方では、仙台や金沢や福岡など、そのあたりの地方都市のニュースや街歩き番組を見ていて、東京はニューヨークやパリと同じような現実感のない遠い都市だ。北関東の人たちは東京を身近に感じるからこそ、本当のいなか者よりも、自分たちを強く田舎者だと思うことになる。

東京に住んでいる人は、北関東の人たちへの差別意識を持っているわけではない。けれども茨城や栃木、群馬の人たちは、自分たちは田舎者だという差別意識にさいなまれている。東京の人は自分たちをバカにしていると、なぜか思い込んでいる。

 東京落語を聞くと、田舎者は北関東の訛りで表現されていることに気づく。現在の落語が構築された明治から昭和初期にかけて、当時の交通網では、田舎者といえば北関東出身者だったのだろう。それに教育の不十分さも加わって、北関東出身者を江戸・東京っ子がバカにするという構図が出来上がったということか。

幕末まで浅黄裏という言葉が田舎者の代名詞だったと聞くが、参勤交代の江戸時代、出稼ぎの明治以降と、人の移動の形が変わると、バカにする田舎者も変わる。人はいつも差別する対象を探しているのかもしれない。誰でも自分より下と思える存在があればいいのかもしれない。

 差別で悲しいのは、差別されることをあきらめてしまうことだ。この作品では、差別クラスに在籍している埼玉県人が、それを仕方ないことと受け入れている。マンガ「暗殺教室」では、タコ先生が入ったことで、がんばってそこから這い上がっていく。この映画でも、主人公が来るまで、埼玉県民クラスの生徒は戦おうとしていなかった。

それと、ダメな人がダメな人を探し出そうとすることも悲しい。差別する人に立ち向かうのではなく、自分よりダメな人、それがいなければ自分同等のダメな人を探して、そこと争おうとする。この作品で、戦うべき相手は東京なのに、埼玉と千葉が戦っている。このあたりが、支配者に安易に踊らされる人たちの姿を如実に描いている。支配者への戦いは、想定さえできず、共闘すべき者と争ってしまう。戦うべき相手を見誤ってしまうことは、まさに支配者の思うつぼだ。

 コメディとうたっているが、描いているのは、とても笑える内容ではない。しかしこんな差別に関する人間心理を、普通に映画にしたら、すごく重くなってしまうだろう。どんな作品にも、作る人の思いが根底に流れている。軸としてなにがしかの思想がなければ、本当の駄作になる。けっこうヒットした本作に、軸がないわけがない。コメディの糖衣をかぶりながら、なかなかに厳しい人間への指摘が込められている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?