見出し画像

いつかもう一度行ってみたい、ちょっと変わったヨーロッパ南まわりの旅

むかしむかし、まだ少女だったころ・・・
美術学校の学生だったわたしは、卒業旅行に、ヨーロッパ15日の旅をしました。

ちょっと変わった旅行会社の、今は社長になってる添乗員さんが企画してくれたヨーロッパは。
イラン航空で行く、南まわりの旅でした。

行きも帰りも、テヘランで乗り換え。
途中、北京やジュネーブにも、給油などで寄り。

パリから、電車でベニスへ、そしてフィレンツェ、ローマ、それから当時は日本人は行ったことが無いと言われてた、可愛い街並みのアルベロベッロへ。
それから船でギリシャへ渡り、アドレア海で泳ぎ。
アテネから、エーゲ海にうかぶエギナ島に渡ってここでも泳ぎ。

帰りのテヘランでは、革命が始まっていたので、五つ星のホテルで一泊して乗り換えて・・・という旅。

あの時の写真と、当時「ヨーロッパ旅行記」と題して書いていたノートだけは、何度も引っ越しをしたけれども、荷物の底に入れていました。

いつか、記録をどこかに載せておきたいと思っていました。
そして、生きてるうちに、全部とはいかなくてもどこか一か所でも良いから、行きたいなぁ・・・と思っているのです。

写真は色あせてしまったけれど、青い空と真白な壁のアルベロベッロ

スタートはパリ

いまにして思えば、あまり乗り物に強くない私なので、あちこち給油に寄って、ゆっくり行ける南まわりはベストだったのかもしれません。

仲の良い友達が、行こう!と誘ってくれたために、急に親に頼んで行かせてもらった旅行だったので、全然下調べもせず、よくわからないままの、行き当たりバッタリの旅でした。

ただ、パリのセーヌ川のほとりを、浴衣で歩こう!という目的だけは、決めていました。
なので、浴衣だけは、自力で着れるように練習して行ったのでした。

無事に目的は達成!

ほとんどが、自由行動の旅だったので、この日はどこに行っても良かったのですけど。
皆は、ルーブルに行くと言うし、一応美術学校の学生だったので、ルーブル美術館くらいは行かなきゃかな?と思って、ルーブルには向かっていました。

でも漫画に出てきた「ポンヌフ」にも行かなきゃだし。
そして、ルーブルに向かってた男子が、「ルーブルは下駄はダメなんじゃない?」と言ったので、さっさと諦めたのでした。

行ったのは8月のお盆の頃でしたが、パリは寒かった!
マロニエ並木は、ちょっと紅葉が始まっていました・・・

現地の人は浴衣が寒いかどうか、わからないはずだから、寒くないフリをして歩きました!!
日本人には「寒くないの?」と言われたけどね・・笑

パリには2泊3日いたので、メトロを乗り継いで、のみの市に行ってみたり。
ちょっと迷子になったり。
メトロの駅がとてもカラフルだったことが、印象に残っています。

そして、ほとんどが自動改札で、当時日本にはまだ自動改札はあまり無かったので、改札から出れなくなってしまった事件がありました。

いや、だってガラス戸を開けて外に出るしくみになっていまして。
私だって、他の人と同じように、ドアを押したのよ?
取っ手のついていない、押すだけのガラス戸で。

でも、ビクともしない。開かない!
外から、現地のおじさまが、声かけて教えてくれるけど、何と言ってるかまるでわからない。
押せ!ってジェスチャーだから、必死で押す!けど開かない~!

結局、そのオジサマが、自分の切符使って一旦入ってきてくださって。

ガラス戸、開けてくれたんだけどね・・・
「ガラス」だけを押すんでした。
枠を、押したらダメだったのね。

ホントに、どうもありがとうございます~!だったのでした。

当時、ギリギリ10代だった私は、こけしのようだとよく言われ・・たぶん子供に見えたのだと思います。

そういえば、イラン航空の飛行機降りる時にも、CAさんがしゃがんで目を合わせて、飴、くれたっけ・・(一体何歳に見られたんだ!?)

パリは、とても綺麗だったけど、・・・あちこちに犬のフンが落ちていました。
そして犬とチリトリのポスターがあちこちに貼ってあったのでした。(フンは処理しましょう、みたいなね)

そして、食べ物が合わなかった!
学生の貧乏旅行だったので、とにかく安そうな所で食べたのがいけなかったかもしれないけど。

誰も言葉がわからないので、見てわかるモノしか選べないワケで。
添乗員さんに教えてもらった、セルフの店に入ったのだけれど。
ミートソースが想像を絶する味で、一緒に入った全員、だれも完食できませんでした。

まさかのプリンまでも!!
ここはお菓子の国じゃないのか?!と思ったけど。

何と表現して良いかわからないけど、とにかくマズイ!

それで、パリでの食事は日本人のやってるラーメン屋さんに行ったり。(でも、これがとにかく高い!そして緑茶までもが高い!)
日本から持参した、生協のカップ麺を、お湯を頼むスベがなかったのでホテルの水道のお湯を入れて(ぬるかった)パリパリ、食べたりしたのでした★

パリの最後は、サクレクール寺院と、ポンピドーセンターへ。


サクレクール寺院の近くで、友達のカメラのフィルムが無くなり、ベンチで取り替えてる間に、この友人がジプシーの子供たちに囲まれてしまって、ちょっと怖い思いもしました。
(何も取られなくて良かったね!と言っていたら、後で日本円だけすられていたことが発覚・・・)

その後は、ポンピドーセンターへ。
前の広場には大道芸人が沢山いて、会館の中よりこっちの方が興味津々!
わたしは、ここで暮せるかも?!と思ったりして、ちょっと自分のワクが外れたのはここだったのかもしれません。

夕方からバス移動で、リヨン駅に行って、真暗になってから夜行の寝台列車、国際列車でベニスに向かったのでした。

何を食べても美味しかった、イタリア篇

寝台列車は、3段ベッドの6人部屋でした。
国境を越えて夜じゅう走り。
海の上に鉄橋があるのか、両側に海を見ながらベニスに到着。

そして、この電車の車掌さんは、なかなかイケメンでした★
でも、「ベニスに死す」のアンドレセン君みたいな美形は、なかなかいなかった~。

ベニスではどこに行くにもお船でした。
サンマルコ寺院の近くのレストランで、添乗員さんが頼んでくれたスパゲッティボンゴーレと、小魚のフライはと~っても美味しくて救われました。

パリでほとんど食べれなかったせいか、イタリアは、何でも美味しい!という印象でした。

もしかしたら、温暖化でベニスって沈んでしまう都市?
とも聞いたことがあるので、いつか行くなら、早くしなくちゃいけないでしょうか・・・。

ゴンドラにも乗ってみたかったのですが、高い!のです。
それで、きっと大人になったらまた来よう!という想いを残したまま、諦めたのでした。

翌朝は、バスでベニスを発ち、ラベンナ経由でフィレンツェへ。
一泊して、翌日はローマ。

アイスもピザも美味しくて。
ビックリしたのは、現地の大人の方々は、みな横に大きかったこと。
そして、エスプレッソのようなコーヒーに砂糖をた~っぷり入れてる事でした。

それと、パリもそうだったけど、どこでも車がボロかったのにもビックリ。
見てくれよりも、実用性、って感じなのでしょうか。

日本に帰ってきた時、日本の車が皆、光っていておどろきました。


意外に小さかったトレビの泉や、スペイン階段にも行って、映画のマネしてアイスを食べました。
この時のアイスが、色んな色が沢山混ざっているアイスでビックリでした。
(現在は、スペイン階段で何か食べたらいけないらしいです!)

今なら、スマホで沢山写真も撮って、インスタなんかにあげられるけれど。
当時は24枚撮りとか36枚撮りとかのフィルムのカメラだし、帰国してから、現像に出すのだって、一枚いくら、ってかかっちゃうから、そうそう沢山は写真って撮れなかったのですよね。

そうそう、ホテルの近所に、「ガイコツ寺」ってのがありました。
教会?の中にも天井にも、骸骨がキレイに飾ってあるの。

文化の違いに何とも、ビックリ・・・


そして、またバス移動で、寄ったのがアルベロベッロという村でした。
昔からの真っ白な建物に、グレーの石を積んである三角のお屋根の家が、ず~っと坂道に続いていました。

物語の中に、入りこんだような場所でしたね。

おばさまやおばあさんたちが、なんだか変わった織機?みたいなので、毛糸のショールを編んでいました。


この後、バスはブリンディシにや~っと到着して、船に乗り込むのでした。
何時間乗ったのか、記憶にないのですが、とにかく夜じゅう、船に乗りました。
ここからギリシャに向かいます。

夜、添乗員さんはじめ、男性陣は、紙で作ったマージャンしたり、あちこちで酒盛りしたり、してました。

真暗な甲板に出ると、星が見事で、天の川がすごかった~!と、ノートには書いてあるのだけれど、記憶としては、あまり残っていないんですよね。


船にはぜんぜん酔わなくて、助かりました。
大きな船だったので良かったのか、あまり波のない海だったのでしょうか。

四国に渡るフェリーとかは、もう船酔いで大変だった記憶があるのに、この時の船はぜんぜん揺れなかったのです。


旅は半分は過ぎたのですが、あまりに長くなりそうなので、今回は一旦ここまでにします。
次回は、ギリシャと、帰りに泊まったテヘランなどを。

もしも、よかったらまた続きもご覧いただけると、嬉しいです!

読んでくださって、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?