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桃源郷の思い出(まんがアシスタントの記憶)・1

むかしむかし、桃畑の中のアトリエで、お仕事をしておりました。
それは、当時のわたしの夢が叶ったお仕事ではありましたが
かなり、変わった体験でもありました。

中学の頃に「漫画家になる」と思い込んだ私、高校卒業後の進路を決める時には、某○○先生のところに弟子入りしようと勝手に決めていました。

でも、そのためには美術学校くらい出てないと、ムサビ出身の、かの先生のところでは使いものにならないだろう、と、美術選択してなかったけれど、美術学校に進学したのでした。

そして、そこを卒業する時。
もちろん、某先生のスタッフ募集なんてしていませんでしたが・・。
でも、先生のところに行くと決めて美術学校行ったんだもん、あきらめる訳にはいきません。
とりあえず、編集部を直撃して、あえなく玉砕。

でも、思い込みってスゴイですよね。
とりあえず、伝手を探して、先生に直接手紙を書いて直訴してみました。

そもそも、マンガ家になろうと思ったのは、自分の信じる光明思想を、世界に普及させたかったから。
赤毛のアンも、キャンディキャンディも、ポリアンナも、どんな運命がやってきても、明るく乗り越えていくオハナシ。
そういうオハナシが、世の中には絶対必要!と思っていたのです。

でも、同じような思想で、既にマンガを発表されてる先生がいらっしゃるならば、そこで、お手伝いをしたい!と思ったワケです。
そんな、想いを手紙に書いて、それで美術学校にも行きました!と、今考えたら迷惑な話ですが、面接だけでもしてください!と。
座り込みしに行きますと、直訴したのでした。


ところが、その情熱?が通じまして「面接しましょう」とお電話をいただきました。

そしてなんと、長期連載の「〇〇をねらえ!」の最終回の頃に、スタッフにとっていただく事になりました。

しかも、最終回の原稿のころにNHKの「テレビロータリー」という番組の取材があるから、いらっしゃいと呼んでいただき。
まだ、正式採用でもないうちに、スタッフとして一緒に放送されてしまいました。
(当時の事で、ビデオもなかったし、録音も残っていませんけど~)



そして無事、スタッフになる事になり、当時○○先生は山梨県の塩山(えんざん)にお住まいだったので私も塩山の住人になりました。

まわり中、桃とすももの果樹園。
長く続いた某○○をねらえ!が最終回を迎えた後で、連載も何もない時。
ホントだったらスタッフなんて新たに取る時ではなかったと思うのだけど....。
毎日アトリエに出勤しては、デッサンしたり、お花やら、時間のかかる点描やらの描き溜めをしたり、していました。

ちなみに、普通の漫画家さんだったら、仕事の無い時には、アシスタントは解散だと思われます。
でも、先生のアトリエは、会社組織になっていまして、父上が経営する某工芸社のまんが部門という事になっていましたので、そのお陰だったのだと思います。

なので、ご自宅の庭の手入れ、水まき、苔の中の草取り、などの業務もありました~。


そしてその時に、たしか「フルール」っていうお花の百科事典みたいなのが、全14巻?くらいありまして。
最近朝ドラで有名になった、牧野富太郎博士のコメントがとっても面白くて
お花を描きながら、よく読みました。
それで、結構お花にくわしくなりましたねー。

エリザベス朝の頃の「7つの〇〇〇〇〇」という未完の連載もあったので、その頃の資料を沢山読んだりする時間もありました。

まんがっていうのは、誰が読むかわからないもので。
なにしろ、子供は書かれているものを信じてしまうから、ウソを書いてはいけない!との先生のポリシーがあり。
でも、あまりヒドクてその通りには描けないことも結構あるのです。
けれど、それでもちゃんと知らないといけない、という事で、エリザベス朝の頃の歴史や風俗、それに、いずれは武田信玄の話も描くからと、信玄公のころの資料も読んだり、点描のお城を描いたりも、しました。


後に描いた、某トビラ絵のばら



先生ご自身はものすごい読書家で、アトリエには、図書館のように膨大な資料があり、それを全部読破されていました。

当時、まだ30歳になったばかりくらいだった先生は、多分、当時の年収は億を超えていたのではないかと思います。
女流漫画家では、最高額をとってると、噂に聞きました。

そして収入によって、人は出会うコトや人が変わるんだなーという事を、目の当たりに見せてもいただきました。


当時、外車くらいの値段がした『富士通のオアシス100』っていう出始めのワープロが、途中からやって来て。
スタッフみんなで親指シフトを覚えて、資料やら、年表やらを打ち込みました。

何故か「易経」なんてのも読まされてました。
それで漢文を、ワープロで打ち込んだりしましたねー。
まだ16ドットの時代で、上下点とか、レ点とか一、二点をドットで作って、単語登録したりしてました。

東大で放射線石の研究をされていた80代の博士の、手書きの文章を、このオアシスに打ち込んだりもして。
そのお陰で、戦争中なのにマッカーサーに許されて世界で石の研究をした方の、冒険のような貴重なレポートを読ませていただきました。
この方は、75歳過ぎたら自分のための人生だからと、75過ぎてから真言密教を学ばれて、お坊さんの資格をとられた方でした。
クセの強い明治の方の手書きの文字は、旧仮名旧漢字だったせいもあり、他のスタッフでは読めなくて、もっぱら私がオアシスに打ち込んでいました。

同じ日本語のはずなのに、知らない単語が沢山あって、難儀しましたが、ワープロさんには賢い辞書がちゃんと入っていて、ちゃんと読めたら、漢字に変換してくれて、感動したのを覚えています。
あの時、ついでに意味も教えてくれたら良いのに~と思ったけれど、今のパソコンさんは、それなりに意味も教えてくれるようになりビックリですね。


それから、何故かESP能力の訓練?もやりました。
ESPカードで、毎日透視の訓練やら、テレパシーの訓練もね。
不思議に毎日やると、カードがかなりの確率で見えるようになったりするのです。
スタッフの中には、時々全部のカードが見えてしまったりする事もありました。(他のモノの透視が出来るようになった訳ではありませんけどね~!?)

連載とかなかったからできた事ですけれど。
でも、当時4人いたスタッフに、ちゃんとお給料いただいていたので、今にして思えば、ほんとに申し訳ないような経験でした。

実際にまんがの仕事をやりはじめたのは、結構経ってからのことでした。 

                                          (つづく)

※かなり昔に、別宅のブログに公開した記事を、加筆修正してUPしてみました。


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