"可哀想だよ"

小学生の頃。クラスメイトの男子が複数人でカマキリを捕まえて、虫カゴに入れ教室に持ち込んだ。彼らは休み時間のたびにバッタとか色んな虫を捕まえて持ってきては、虫カゴのカマキリに食べさせるようになった。カマキリの食事風景に興奮し、オーッと沸いていた。

はっきり物言っていくタイプの女子が立ち上がり、何人かの仲間を連れて、カマキリを養っていた男子たちにその行為をやめるように言った。

「可哀想だよ。逃がしなよ」

と。

言われた方は

「このカマキリだって食わなきゃ死ぬぞ。バッタが可哀想だからカマキリは空腹を我慢して死ななきゃならないのか。そしたらカマキリが可哀想だろうが」

と反論した。

そのやり取りを見ていて私は、万感の思いを込め「むむぅ…………」となっていたと思う。

でもどこか、男子側の言い分に違和感があった。
うまく言語化できないまま、違和感は残り続けた。

我が家でレモンの木を育てている。そのレモンに毎年アゲハが産卵しに来て、たくさんのイモムシが育って旅立っていく。イモムシさんのフンの処理が大変なことや、葉を食害されるためにレモンが一向に結実しないという悩みはありつつも、同じ地球に生きる隣人としてのアゲハの命の営みを、毎年微笑ましく見守ってきた。

先日。そんなアゲハ幼稚園と化している我が家の植え木鉢スペースに、カマキリが現れた。

見つけた時このカマキリはエアコンの室外機をエイエイと登ろうとしてツルツルと滑ってアセアセとしているところだったので、フフフおもろ可愛いヤツ…と思っていた。

アゲハの幼虫とこのカマキリの間に弱肉強食が発生するのでは…という心配も同時に浮かんだ。

以来カマキリは数日間家の周りに滞在し、神出鬼没に我々人間の前に姿を現した。鉢植えのレモングラスの葉に完全に擬態しているところを見つけた時は「アラー隠れ上手ー^^」と喜んだりしていたのだが。

一匹のアゲハの幼虫が、あろうことか、カマキリが滞在するそのレモングラスの葉の三本ほど隣の葉で、サナギになる準備を始めてしまった。

もう見ているこっちはすごい緊張した。
た、た、食べるんですか?やっぱり…!と。

そんな心配はよそに、サナギになりどころを定めたアゲハ幼虫は、ひと仕事終えたわぁ…の感じで、レモングラスの葉の側面で順調に体を硬くし、糸を出し始めていた。わちゃぁ。そんな糸とかかけちゃったらもう、カマキリに狙われた時、万に一つも逃げられないじゃん。

こちらの緊張は高まるばかりだった。

家族に、カマキリからイモムシが食われないように介入するべきかどうか、意見を求めた。介入しない、ということになった。やはり自然界のことなので。大自然の掟に不敬に不遜に関与すべきではなかろう、ということで。

果たしてカマキリはその幼虫を食べた。

カマキリがアゲハの幼虫を食べかねない状況に「緊張していた」と書いた。

もっと掘り下げると、(食べるの…!?食べちゃうの…!?)と、妙に興奮して、下世話な興味で、成り行きを見守っていた。

恥を忍んでもっと正直に言うと、面白がっていた。

テレビでライオンがシマウマを食べるシーンをつい目で追ってしまっている時のように。完全に安全な場所から、自分が巻き込まれることのない対岸の弱肉強食を、ショーとして楽しんでしまった。みっともないことだと、遅れて気がついた。

しかも、はじめはその下世話な好奇心を自覚しないのみならず、「イモムシ大丈夫かなぁ」と、親切心のフリでコーティングしていた。「大丈夫かなぁ。どうなるのかなぁ」と言いながら、本心ではワクワクして、レモングラスを何度も覗き込んだ。

カマキリを虫かごに入れ、様々な虫を食べさせて楽しがっていたあの小学校のクラスメイト達を思い出した。

その行為を批判されて「カマキリだって食べなきゃ死ぬんだ」と反論した彼らの言葉。どこかがおかしいと思いつつ、どこがどうおかしいのか分からなかったけど、今やっと分かった。

あの時私は、「いやいや面白がってるだけっしょ」と思っていたのだ。
彼らは、カマキリが殺して食べる様が、バッタが殺され食べられる様が、面白くてたまらないから、何度でも見たがっているように見えた。

あれを言った彼がカマキリを虫カゴから逃がしたくなかったのは、恐らくそれがいちばんの理由だっただろうに。「カマキリが飢え死にするのは可哀想じゃないのか」なんて、倫理をタテにしたようなこと言っていたから。変に思った。

カマキリの殺戮ショーをもっともっと楽しみたいんでしょ?その楽しみを奪われたくないんでしょ?なのに全然そうじゃないフリして言い返してるでしょ?と、それがあの時感じた違和感のどうやら中身だった。

今になりそれに見当がつくようになったのは、他ならぬ自分が、そういう暗い楽しみを感じ取る人間だからだ。

そういう野蛮な本性を、私はずっと持っている。持て余して、見ないフリをして、自覚して、嫌悪して、やっぱり全然抗えない時がある。恥ずかしい。努力してコントロールしていきたい。

『バガボンド』の30巻で京都所司代の板倉さんが武蔵に人間の強さについて問いかけながら、「二歳の孫がクモを潰してケラケラわらっていた」と話すシーンが印象深かった。人間は残酷な殺生を経ないことなしにその残酷さを自覚して自分を律することができないのか。答えの出ない問いに、足りない頭を巡らせた。

これからも私は、野蛮な自分に、抗う努力をし続けなくてはいけないのだな。カマキリが食べこぼしたイモムシの内臓をヒィヒィ言って片付けながら──(その「ヒィヒィ」の中身は(うひょー死体だぁ)という野蛮な興奮と、気持ち悪いしバッチくてヤダわ…という感覚と、亡くなったイモムシに南無拝な気持ちと、食べて生きるカマキリに感じる強さ尊さとが、ないまぜ)──秋の陽ざしの中、思ったこと。


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