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いつか風になるまえに

あなたは誰 連絡先の削除。容易ではない。父が死んだとき、私は彼の電話番号を電話から消さなかった。昨日誤ってその番号に掛けてしまい、すぐに切った。その数分後、画面に彼の写真と名前が表示された。ボブは私にメッセージを伝えていたのだ。

昨日までやっていた、ソフィ・カルの「My Mother, my cat, my father, in that order」という展示は、この短いい言葉と、その上に掲げられた小さな写真(たぶんお父さん)から始まる。
ソフィ自身の父、母、猫、それぞれの最期、喪失、そして悼みを作品化したものだ。

なんだろう、東日本大震災が起こってから8年目の今日。なぜか思い出されるのは父のことばかりである。きっとテレビから流れてくるたくさんの人の悲しみと自分の何かが響あってしまっているのだ。いや、それとも、この間、父が夢に出てきたからかもしれない。それは、父と電話で話す夢だった。夢のなかで父は「いま東京タワーの近くに住んでるんだよ」と言った。その口調は、なんだか楽しそうだった。「ああ、意外と近くに父はいるんだな」と夢の中の私は思った。

ソフィ・カルは、連絡先の削除は簡単ではない、と言うが、私はむしろいつまでも消さない派である。さらに言えば、ときおり亡くなった友人に電話をしてしまうことすらある。その人の携帯番号にかけて、繋がらないことを確認して、残念な気持ちとほっとするような気持ちと両方を味って、日常に戻る。亡くなった直後だと、留守番電話に繋がることが多い。しかし、時間が経つと、他の人に繋がってしまうこともある。その時は、「すみません、間違えました」と言って切る。我ながら怪しいと思う。でも、その頃になってやっと私は現実のカケラを飲み込めたような気持ちになる。

ただ残念ながら、父に電話したことはない。あの頃、私はパリに住んでいたから、日本の携帯電話は持っていなかった。だから、今更ながら夢の中で電話をしてしまったのかもしれない。

父が亡くなってもう14年になろうとしている。14年も経つと、いつもいつも父のことを思うわけではない。はっきりいって、ほぼなにも思い出すこともなく眠りにつく日だって多いし、日常生活の中に父の面影を探すのことも難しくなっている。しかし、考えようによっては、それくらい父という存在が私のいまの毎日、いや、<私>という存在にぐんぐんと流れ込んで、溶けてしまった結果なのかもしれない。

ときおり、ふっと向こうにいってしまった友人たちのことを思う。しばしの間だけ想像する。彼らが何を考えて生きていたのか。どうして、あの時、ああいう行動をとったのか。いま会えたらどんな話をするのか。そういう想像はそんなに長く続かないものの、そうするうちに、死者の存在は自分の中にひっそりと取り込まれ、重なり合い、<私>という存在との境目がなくなっていく感じがする。彼らの存在と<私>はいつもまにか自分のなかの湖に溶けてあい、ごっちゃごちゃになり、ひとつの生態系のようなものを織りなし始める。そんな小さな変化の積み重ねの先には、時に忘却や記憶の消滅も含まれる。だけど、それはそれで決して悪くない変化なように今は思えるのだ。

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風化。なんだろう。辞書はひいたことない。想像すると、それは風になること。風が吹いて、吹いて、見えないくらいにどこか遠くに飛んでゆくこと。
『空をゆく巨人』を書いたのは、震災を風化させたくないという背筋を伸ばしたミッションなどではなかった。

あの日、私は志賀忠重さんの「怒り」に触れた。志賀さんは燃え尽きない怒りの火を鎮めようと、信じられないくらいたくさんの桜を植えていた。その怒りが自分の中にある感情の何かと共鳴した。
チリン。チリン。
最初は小さな音だったように思う。だけど、時間が経つにつれ、その音は無視できないほどに大きくなり、書きたいという思いが溢れた。なにも震災の話だけではなかった。震災は彼の人生の一部にすぎない。そのことを伝えるためにも、私は60年間を振りかえって書く必要があると思った。そして、それは志賀さんの話だけではなかった。書きすすめてみれば、それは私たちの話だった。「私たち」が生きてきた時代。震災の前も後も。書きたかった、いつか風になる前に。

私という存在はそんな風に常に誰かと共鳴している。

怒り、悲しみ、喜び、愛おしさ。そんなものとブルブルと共鳴しながら生きている。そうして、時として話を聞き、想像し、半分気が狂いそうになりながら、なんとか文章として書いていく。それは、そこに生きる人々の思いを自分のなかの湖にゆっくりと取り込むという奇妙なプロセスでもある。だからいま、そのたくさんの思いと自分との境目は、少しずつ曖昧になっていって、湖は日々複雑さと深さを増しているように思う。

あの日から8年。私たちは、ひとりひとり違う思いを抱え、かけがいのないたったひとりの生を生きている。

誰もが精一杯に。

その日々を想像しながら。合掌。

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