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陰鬱の足音が急に聞こえてはっとした時にはもう陰鬱に飲み込まれるなんてことがよくある。私は突然の陰鬱に多少慣れているしそういうものだと割り切っているけど陰鬱に飲まれた私の思考はしっかりと駄目になるのだからため息が出てしまう。


外に出るのは愚か、ベッドから一歩も動けない。余計な思考だけが私の脳内を回り続けて疲弊して、ネガティブな感情で傷付いた心は何もかもを遮断してしまう。散らかった部屋を眺めながらやり場の無い感情で顔を両手で覆ってしまう。そんな私を俯瞰している私もいて、そっち側の私がこうやって言語化に勤しんでいるのかもしれない。こうなってしまったら待つしかないことを理解しているのでベッドの上で時間稼ぎをしているわけだが、心がくしゃくしゃに丸まってしまった時は同時に体調もダメになることが厄介で胃の中でかき回されたものを嘔吐するたびに今散らかった脳みそがそのまま出てきたみたいな汚さだなとか、食べたものがもったいないなとかやけにクリアな脳みそと身体の不快感のちぐはぐに違和感を感じつつ、陰鬱に飲み込まれた私はもう思考も行動も他人のようだなと思うと同時にそういう自分を受け入れたくないのだろう。

こういった人間は淘汰されていくし社会というのは異物を排除したがるものということを理解している。必死に私は社会の一部のフリをしたがるのだが私自身が排除しようものなら陰鬱に飲まれた私は迷子になってしまうので私は私と手を繋いであげようと思うのだ。私は常々精神がブレない人間でいたいと思っているのだけれどこれが本当に出来ずに参ってしまう。陰鬱というのは私の都合を問わずに勝手にやってくるものなのでこればっかりは仕方ないと思うことにしている。陰鬱の私はちぐはぐで"こうでいたい"と"こうでいれない"の心と事実でめちゃくちゃになりがちだ。実際この日記だってちぐはぐでめちゃくちゃな訳で。でもいつかの私にとってそれがまた良かったりするかもしれない、と願掛けではないけどそうであってほしい。


願い、祈りそういった類は悪手な気もするが無信仰な私は何かに縋りたいのだろう。生温いその感情は必要か不要か決めるのは早計すぎる気がして私は今日も無意識のうちに願って縋っているのかもしれない。布団と陰鬱を被って引きこもっている私も明日にはどうか穏やかな気持ちでいれるよう、そうでいたいと思う心は間違いではないよねと自身を信仰しながら眠る。


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