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『潜水艦クルスクの生存者たち』から読みとく、悲劇を忘れないということ。

こんにちは。映画館でスタッフをしています、ありたらむといいます。

このnoteでは私が触れた映画・ドラマなどなどをピックアップして、なにが面白いのか/面白くないのか、そこにどんな背景があるのか、考えたことを文章にまとめたいと思います。どうぞ、お付き合いくださいませ。

今回は4/8(金)から全国公開されている映画『潜水艦クルスクの生存者たち』について紹介します。

「記憶が一番大切。乗組員が忘れられないように奔走しているの」。
2000年に発生したロシアの原子力潜水艦・クルスクの事故により息子を失ったソフィア・ドゥトコは、事故から15年経った2015年のインタビューでそう語った(1)。同じ年に行われた世論調査では、事故に関する質問に「答えるのが難しい」とした人が全体の26%を占めており、事故発生当時の6%と比較するとその差は歴然である(2)。国家によるマスメディアの管理が徹底され、また2014年のクリミア併合を機に国民の愛国心が高まりつづけるロシアにおいて、自国の威信を最優先したために118人の乗組員が犠牲となった事故について人々が思い出し、議論する機会は失われつつあった。

日本でも事故の発生当時はクルスクに関する報道がさかんに行われ、時事通信社の「2000年10大ニュース」では海外ニュースの6位にランクインしている(3)。しかし、いまどれほどの人がこの事故を覚えているだろうか。日本人の多くがテレビを眺め、乗組員の安否を気遣い、ロシア当局の遅々とした対応を目の当たりにしていたはずだ。しかし、テレビに閉じ込められたニュースの寿命は短い。人々の記憶は薄れ、非難されたプーチン大統領もいつしか日本のインターネットで「ネタ」消費される存在となっていた。そして2022年2月24日、ロシアは隣国ウクライナへの軍事侵攻を開始した。22年前の気持ちも薄らいだ私たちは、国の威信のために多くの人々が犠牲となる様子を、インターネットによりさらに寿命の短くなったニュースを通して眺めている。今より20年後、私たちはまた同じことを繰り返すのだろうか。忘れないために、思い出すためには一体どうすればよいのだろうか。戦争とパンデミックにより激変する世界において、その問いはあまりに難しい。

クルスクの事故を題材とした『潜水艦クルスクの生存者たち』は、そんな禅問答へのかすかな処方箋となる映画だ。製作を務めるのは、『レオン』などで知られるリュック・ベッソン率いるヨーロッパ・コープ。キャストにはフランス圏の俳優に加えてレア・セドゥ(『007』シリーズ)やコリン・ファース(『キングスマン』)など米国メジャー作品で活躍する面々が参加し、また『プライベート・ライアン』のロバート・ロダットが脚本を執筆するなど、エンターテインメント大作としての趣を持つ作品となっている。そもそもヨーロッパ・コープは『96時間』や『トランスポーター』など大味なアクション映画により名を揚げてきた会社であり、ともすれば本作は事故をただ記号的に消費するだけの作品になっていたかもしれない。しかし『潜水艦クルスクの生存者たち』はそういった作品とは一線を画しており、潜水艦の乗組員や家族たちの愛と尊厳を描くことで、事故をとりまく当局の対応がどれほど非人道的であったかを浮き彫りにすることに成功している。それは本作の監督が、これまで大作とは距離を置いた場所で人間の姿をつぶさに描いてきたトマス・ヴィンターベアだから実現したことだろう。

ヴィンターベアは自身の作品で、"終わること"に向き合う人々を撮り続けてきた。『セレブレーション』ではある事件をきっかけに崩壊する裕福な家庭を、『偽らざる者』では冤罪により社会的な立場や人間関係をすべて失う男を、『アナザー・ラウンド』では飲酒により破滅していく中年男性たちをカメラの中心に据えている。深い悲劇を描きつつも、そのなかから浮かび上がる人間の純粋な姿を肯定しようとする姿勢こそトマス・ヴィンターベアの作家性といえる。

そういったヴィンターべア"らしさ"は、大作映画である『潜水艦クルスクの生存者たち』でも十分に発揮されている。完成した本作はパニック映画のエンターテイメント性を含みつつも、その本筋はあくまで登場人物たちの人生を、潜水艦のなかで死を見据える乗組員たちを描くことにあった。これはヴィンターべアが本作に関わるなかで強く望んだことだった。実はロバットの書き下ろした第一稿では、映画が始まって間もなく潜水艦が爆発し、あとは政治的スリラーが続くようなストーリー展開だったというのだ。インタビューでヴィンターべアは語る。「この物語で私が魅力を感じたのは、登場人物たちの人生、潜水艦での海兵隊員たちのあり方、事故後に死を見つめる姿などです。それをテーマにして仕事ができると思っていました」(4)。

そういった人生の物語を描く上で本作には象徴的なポイントが少なくとも2つある。1つは登場人物たちに差し迫る"時間"であり、それはクルスク艦内のシークエンスに限らない。例えば映画の冒頭でクルスクの司令官ミハイル・アヴランとその息子ミーシャが自宅のバスルームで息止め競争を行うとき、ミハイルの腕時計からはチク、タク、チク、タク、と音が聞こえてくる。水中から腕時計を見つめるミーシャが耐えきれなくなり顔を上げる場面は親子の営みを描いた暖かいシーンに思えるが、2人の間に響く秒針の音と"息止め競争"という遊びが、やがて潜水艦内でミハイルたちを襲う事態を予感させるのだ。その後、ミハイルの親友(彼もクルスクの乗組員である)とその妻の結婚式では2人がどれだけ長くキスをし続けられるか試す場面がある。歓喜と祝福に沸く教会で、2人は10秒, 20秒と唇を交わす。やがて呼吸が苦しくなり離れる2人にも、その先に訪れる悲劇を感じずにいられない。

舞台がクルスク艦内に変わってからは、乗組員たちは文字通り"時間切れ"と闘うことになる。事故が発生して徐々に酸素が失われる船内で乗組員たちの状況は厳しさを増していくが、彼らは決して「何もしない」ことを選ばない。互いを鼓舞し、小粋なジョークで笑い合い、歌を歌う。なけなしのチャンスにもしがみつく。すべての希望が潰えて死を見据えたときでさえ、仲間を結ぶ固い絆を捨てたりはしない。いつだって彼らは、海の男としての誇りに支えられているのだ。ヴィンターベアはこの姿を丹念に描くことで、クルスクの乗組員たちがただの犠牲者ではなく必死に生きた人間であると観客に印象付ける。これこそ本作の意義であり、彼らの人生を映画として永遠に残すことは事故を風化させる"時間"への抵抗となるだろう。

もう1つのポイントは、全編に散りばめられた子どもの視点である。地上におけるクルスク救助へ向けた物語を動かしていくのは基本的には乗組員たちの妻や軍・政府の人間だが、本作では彼らを見つめる子どもの様子もきちんと描かれる。国家機密を守るためひたすらに情報を公開しない軍部、他国の支援を拒み続ける国家、会見の場で怒りと悲しみを訴える乗組員の家族の姿…子どもたちはすべてを目撃している。そして大切なのは彼らもまた事故により親と引き裂かれた被害者であり、理不尽に対する感情と思考を持っているということだ。終盤、子どもたちは軍の高官への意思を表明するようにあるアクションを起こす。そして映画はひとつの場面を挟んで暗転し、次の一節を挟んでエンドロールに入る。"彼らは71人の子どもたちを残して逝った。"

事故から22年が経ち、子どもたちは今や大人になった。しかし政府の対応についての追求が十分にされぬまま、彼の国とその隣国では再びかつてと同じように苦しむ人々や遺された子どもたちが生まれている。この悲劇すらもいずれ忘れられ、また20年経ったときに再生産されるのだろうか。繰り返さないために"いま"思考することが大切ではないか。
『潜水艦クルスクの生存者たち』は悲劇のなかで生きようとする人々の勇気と無念を通して、未だ解決しない問題について人々が再び議論する必要性を訴える作品である。

◆参考文献
(1)ロシア・ビヨンド, "原潜「クルスク」沈没事故から15年"(2022年4月27日閲覧)https://jp.rbth.com/society/2015/08/11/382831

(2)RadioFreeEurope/RadioLiberty, 15 Years After Kursk Disaster, Fewer Russians Critical Of State Response(2022年4月27日閲覧)
https://www.rferl.org/a/russia-putin-kursk-disaster-15-years-less-critical/27182917.html

(3)時事通信社, 【図解・社会】平成を振り返る、2000年10大ニュース(2022年4月27日閲覧)https://www.jiji.com/sp/graphics?p=ve_soc_general-10bignews2000

(4)Filmkrant, Thomas Vinterberg over Kursk(2022年4月28日閲覧)https://filmkrant.nl/interview/thomas-vinterberg-kursk/


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