「サルデーニャの蜜蜂」 内田洋子

 自分自身は生まれてこの方の土着の民で、異国の地に居場所を定めて長い時を過ごすなんてことはまったく、自分とは関係のない事柄だと思っている。
 だけど内田洋子さんの本を読むときには、ここではないどこかへ行ってみたい気持ちが湧いてくる。

 内田さんのイタリアは、風景も人も空気まで、まごうことなく異郷なのだが、同時になぜだか少し懐かしい。その場へ行ってみたいような気持ちにさせる未知と懐かしさが同居している。
 その場へ行って、その空気に触れてみたい。生粋の出不精である自分にそんな気持ちが起こるとは。
 なぜだろうか。イタリアにせよどこにせよ、外国への憧れなんてものは、とうの昔にどこかへ置いてきてしまっているのに。

 なぜだろうか、と考えてみる。異国へ行ってみたいと思う理由はなんだろうか。
 ここではないどこかに行った自分を想像するとき、隣には誰もいない。知らない風景があり、知らない人がいて、自分は一人で立っている。
 そこは風通しが良く、少し肌寒い。誰かに暖かさを分けてもらい、自分からも分けられるのではないかと期待する。身体の輪郭が周囲にじわりと馴染み、しかし馴染み切ることはできない。
 孤独ではあるが、孤立してはいない、というと言葉遊びみたいだけれど、そういう強さや潔さ、しなやかさに憧れを抱いている。

 なぜだろうかといえば、イタリアにではなく、空想上の人に抱いている憧憬が疼くのだろう。
 ここではないどこかに行けば、これではない何かになれるのではないか。そういう種類の益体もない憧れなのだろう。

 内田洋子さんの文章を読んでいつも連想するのは、切れ味が鋭く、姿が美しい小型のナイフだ。こんなナイフを懐に忍ばせていたら、さぞかし心が浮き立って、心地よい緊張感に包まれるだろうと思う。

 蜜蜂は蜜を求め、幾多の花の間を飛び回る。そうして集められた百花蜜のように、ここに集められたエッセイは読めば様々な味が広がる。
 風味を探り、その来る所、蜜源のその彼方にまで思いを馳せる。

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