火の運び手〜『ザ・ロード』から『悪の法則』への接続

※『ザ・ロード』『ノーカントリー』『悪の法則』の内容に触れています。



闇と寒さのなか二人は臭い毛布にくるまり身を寄せ合って眠った。彼は少年を抱いていた。ひどく細い身体だった。お前はおれの心だ、と彼はいった。

これからも大丈夫だよね、パパ?
ああ、大丈夫だ。
悪いことはなにも起こらないよね。
そのとおりだ。
ぼくたちは火を運んでるから。
そう、火を運んでるから。

ザ・ロード(訳・黒原敏行)

コーマック・マッカーシーの作品群における"火"とは何か。
『ザ・ロード』では、少年の無垢な心、ひいては人間の善性や希望の象徴であるように思える。
しかしマッカーシーの他作『血と暴力の国』『悪の法則』と比較すると、もう一つの象りが見えてくる。

プロメテウス

マッカーシーは、ギリシア神話の"プロメテウスの火“をモチーフにしているのではないだろうか。
挿話にて、最高神ゼウスは、神々と人間を明確に区別することに決めた。その役割を担うことになったのがプロメテウスだ。しかし彼は、人間の味方をする神であった。
人間に恵みをもたらすためのプロメテウスの奸計は、ゼウスの怒りを買う。その結果、人間の暮らす大地からは日々の糧が得づらくなり"火"も取り上げられてしまった。
しかしプロメテウスはまたも人間のため、天界から"火"を持ち出す。
かくてプロメテウスはゼウスの更なる怒りを買うことになり「最初の人間の女」パンドラの創造へと続いてゆく――

ここで神々によって取り上げられ、また与えられる"火"は「文明」の暗喩として読み解かれる。
ギリシア神話のアレゴリーから離れ、歴史的・普遍的な概念として見ても"火"とは文明の起源である。
そして"火"は、使い方を誤れば人間を滅ぼすものだ。

血と暴力の国

『血と暴力の国』の原題『No Country for Old Men』はイェイツの詩『ビザンチウムへの船出』の冒頭から引用されたタイトルであるらしい。
(参照:https://tomomachi.hatenadiary.org/entry/20080320
氏によれば『ビザンチウムへの船出』は近代科学主義に反抗し、芸術や想像がもたらす永遠の力と観念を歌いあげる、ロマン主義的な作品であるという。
同時に、そこに綴られている言葉は、人間にとって老いや死が避けえないものであるという事実と情景——現実そのものである。
神に見放され、苦難と有限の生を彷徨うギリシア神話における人間たちの姿も、ここに重ねられるのではないだろうか。
そして『血と暴力の国』のラスト——ベル保安官の父親の夢でも、神と人間との対比や"火"にまつわる観念が表現されている。

ギリシア神話における糧なき土地。
『ビザンチウムへの船出』における死の運命。
『血と暴力の国』における雪の山道。
全ては、コーマック・マッカーシーの描く無情なる世界と地続きである。

お前はおれの心だ、と彼はいった。おれの心だ。だが彼は仮に自分がいい父親だとしてもそれでも彼女のいったとおりかもしれないと知っていた。彼と死のあいだに立ちはだかっているのは少年だけだということを。

人と世界

しかし、そもそも「現実」とは、ひいては「世界」とはなんだろうか?
「世界観」という言葉があるように、その捉え方は人それぞれに異なる。

人間は文明によって、自分たちの秩序 ≒「世界」を作り上げてきた。しかし、その発展(科学技術の進歩)によって環境は破壊され、近年は「自然保護」の概念が重要視されている。
しかし一口に「自然」と言っても、その字義は「世界」と同じく、一様ではない。
本当の——ありのままの"自然"とは、厳然としてありながらも無常に流れていくものではないだろうか。
神の庇護や文明の火に縋りながら、苦難の生を全うしようと足掻くいじましい人間達を"自然"は厳粛に取り囲み、ただそこに存り続ける。
より有り体に言ってしまうならば、“自然”ひいては“世界”とは、人間の感傷を排し、物理の法則のみを視座に据えた世界観であると定義したい。
(例えば「自然保護」もまた、実際には一口には言えない言葉であり概念である。
「保護」とはつまり、庇護されるべきものと庇護するものの二者が存在するということだが、人間と“自然”の関係は複雑だ。というよりも実際のところ、より大きな意味で「保護」されているのは人間のほうである。“自然”の広大さに比べ、人間という種はあまりに卑小だ。
つまり「自然保護」とは“自然”をより小さな存在である人間の目線で捉え、取捨選択をし、そのうえで行う庇護活動であると考えるべきだろう)

シガーとマルキナ

『血と暴力の国』≓『ノーカントリー』に登場する殺し屋アントン・シガー(このラストネームは現実には存在しない)は、本国ではたびたび “force of nature”と表現されている。
実際、人間の善悪を超えた独自の論理(コイントス≒偶然)によって殺戮を行う彼は、我々にとっては天災のようなものだ。誰もが不条理にあえぐ世界で、彼だけは、自身にまつわる状況をコントロールしている(ただし劇中で一度、彼の論理と秩序が拒絶され、崩れる展開もある)。

マッカーシーが脚本を書き下ろした映画『悪の法則』にも、不条理な世界において自身とその周囲をコントロールし得ている人物がいる。キャメロン・ディアス演じるマルキナだ。
彼女は恋人であるライナーとの砂漠のひとときでこう語っている。
「懐かしむ(miss)って、失ったものが戻るように願うこと。でも戻らない。子供のときからそう思ってた」
こともなげに語るマルキナにライナーは言う。
「冷たすぎないか?」
マルキナはライナーを真っ直ぐに見据えて返す。
「真実に温度などない」

彼女が信奉する「世界」は、砂漠や荒野に象徴されているような、散文的で無情な“世界”であることが見て取れる。
善人だろうが悪人だろうが、数千キロの速度で鉛玉を頭に撃ち込まれれば亡骸となってしまう、物理法則が支配する世界だ。

マルキナの憧憬

しかしマルキナは、シガーほど超人的な人物ではない。彼女は計略(人間の論理)によって、目的のもの(金銭という卑近な代物)を奪取する。
彼女の思想は、ラストシーンであるレストランでの会話にて「狩り」への憧憬と共に語られていく。
「懐かしい(miss)。
チーターが荒野のなか110キロのスピードで野ウサギを狩る姿……見飽きない。
獲物を殺す様を見ていると、心が震える。その肢体と習性は表裏一体なの。
ハンターには、優雅さと美しさがある。そして何よりも純真な心が。それは他のどこにも見つけられないもの。
もちろん、私たち人間は違う。心の弱さが破滅の果てへと導く。
貴方は同意しないかもしれないけれど、臆病者こそ残酷なの。
これからはじまる殺し合いは熾烈を極めることになる」

“これからはじまる殺し合い”から読み取れる恐ろしい含蓄はとりあえず掘り下げないでおく。
要は彼女はあくまで“人間”であるし、自身でもそう認識しているということだ。
彼女はシルヴィアとラウールという二頭のチーターを飼い、自身もその柄のタトゥーをいれている。しかし、あくまでタトゥーなのである。

天使のようなローラ

誰に対しても超然とした風格で接するマルキナが“天使ちゃん”と皮肉に呼ぶ(当該シーンは劇場公開版では省かれている)キャラクターがいる。
主人公カウンセラー(名前は不明)の婚約者ローラである。
劇中のカウンセラーは、理知的で金回りが良さそうに振る舞っている。しかし、どうやら後ろ暗い背景があることが、映画が進むにつれて描写されていく。
劇中メインの事件となる「ビジネス」にまつわる描写だけではなく、ゴルフ場のカフェで、彼の過去を知っているらしい男に恫喝されるシーンもある。
そんな彼だが、ローラへの愛は本物であることもまた、劇中では都度描写されていた。
ローラは美しく、天真爛漫で、カウンセラーのことも心から愛し、信じているように見える。
しかし、上記のカフェのシーンでは、一度はカウンセラーを励ますように握った手を、最後にはするりとほどいてしまうショットが挿入されていた。愛する婚約者への疑念が生まれた瞬間である。
このショットを鑑みるに、ローラはカウンセラーとは違い善人である、ないしはそう描かれているキャラクターであるといえるだろう。
しかし彼女は、この映画において全く無垢な被害者だったのだろうか?

ローラとマルキナは友人同士のようで、プールで二人寝そべりながら会話するシーンがある。
カトリックの教義や教会への礼拝を「私には大事なこと」と言うローラに対し、マルキナは言う。
「告解のときって、悪いことをしていないフリをするの?」
実際、ローラは離婚歴のあるカウンセラーとの結婚について、教義の抜け穴を縫うような旨を発言している。
マルキナは続けて挑発しながら、ローラの婚約指輪に目を留める。
「そのダイヤの値段を知りたい?」
「いいえ、知らなくていい」

ローラにしてみれば、2人の愛の証である宝石を値踏みしたくなかったのだろう。
しかし(半ば結果論ではあるが)ローラは知っているべきだった。
そのダイヤは、カウンセラーの収入と釣り合わない品物(裏社会のビジネスに手を染めなければ入手できなかった代物)だったのだから。
ローラは無垢で善良ではあったが、無謬ではなかったのだ。

この自由な世界で

しかし、無謬の人間など果たして存在するのだろうか。
人間は弱く、ダイヤよりも脆い存在だ。
というよりも、無謬の人間が存在したとして、彼や彼女に倣うことが我々に可能なのだろうか。
カウンセラーも『血と暴力の国』のモスも、裏社会に手を出してしまったことで破滅するが、彼らが追われるきっかけになった事象に注目したい。カウンセラーは依頼人の息子の釈放したことで、モスは死にかけのギャングに水を持っていったことで、つまり善意の行動が裏目に出たことで、追われはじめたのだ。
マルキナの言う通り、世界は散文的で不条理なのである。

マッカーシーの世界観から、明確な教訓を見出すことは難しく思える。
しかし彼は、こう言いたいのではないかと推察する。
「“火”の運び手になれ。そして、運び手に相応しい生き方をせよ」と。

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