『怪物』と『TAR』にノれない理由(わけ)

映画ファンから熱狂的な支持を受け、今年の映画ランキングを席巻しそうな『怪物』と『TAR』だけど、個人的にはノれていない。

「実はそんなに余白のない物語を、豊かな余白(多様な解釈や味わい)があるかのように語っているのでは」というのが2作に共通して感じているモヤモヤ。

2作とも、パズル的な構成・語り口を採用しているけれども、主軸となる人物の行動原理は明快.....いっちゃえば割と単純。
もちろん「分かりやすい」行動原理を主軸に据えること自体は問題ない。むしろ映画にはそのほうが適していると言える。
この2作の問題は、実際は謎でもない心理や事象をミステリアスな雰囲気と演出で描いていること。

『怪物』は構成も台詞もミスリードが先に立ちすぎ(序盤から曰くありげな描写を連発しすぎ)ている。
『TAR』は序盤に想定できる心理や背景以上の深みや広がりが主人公に無い(かなり迂闊な人じゃない?と思ってたら実際単に迂闊な人でしかなかったし、精神的に不安定な原因は過去の罪悪感?と思ってたらやっぱり原因は過去の罪悪感だった)。

2作とも各所に伏線を張り巡らせてはいるけれども、思い返したり2度観たりしてそれらに気付いたとしても、別に作品が味わい深くなるわけじゃない。序盤から想定できてしまう事象を、再確認する要素でしかないから。
「この時点でこんな描写が!待てよ。そうなるとつまりあの人物は.....」みたいな気付きや刺激でなく「あ、ここにもこんな描写仕込んでたんだ。へー」で終わってしまう。

とはいえ問題点の位相は微妙に異なっている。

『怪物』のほうはやはりミスリードのあざとさ、つまり"伏線"と言うには構成も劇中の台詞もワザとらしすぎる点が、1番の問題だと思う。
役者と撮影の素晴らしさによって、少年の揺れ動く心理(複雑な感情)を描けている箇所はあるけれども、第一幕の不要なミスリードがノイズになっている。作りとして上手くないし、セクシャリティをエンタメ的なフックやサプライズとして扱っているような無神経さも感じてしまう。

翻って『TAR』には、意表を突かれた展開が無かったわけではない。生粋の権威者ではなかったという後半のシークエンス(主人公の初期衝動を描く展開)は興味深かった。
ただしそれもあくまで、彼女の中途半端な狡猾さや振る舞いの杜撰さのその源を、種明かし(再確認)するものであって、人物描写に多面性をもたらすものではない。

以上のような理由から、パズリックな語り口に対して「普通にやったら?」と、白けてしまうんである。

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