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動物の祟り

かれこれ30年くらい前、小学校低学年だった頃。家の近所の林に「猫の死体が入っている」と噂されていた発砲スチロールの箱があった。保護猫の虐待死のニュースが流れてきて、このことをふと思い出した。

自分より少し上の学年の女子グループが好奇心で中身を確認しようと何度か小石を投げていたのを見た。彼女ら曰くどうやら本当に入っていて死体と目が合ったらしく、それからはその道を通る時に目をつぶりながら手を合わせて「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」と念仏を唱えるように謝りながらその道を通っていた。箱は背の低い植物の下の暗がりにわずかにフタがズレた状態のまま放置されていたが、自分は怖かったので近づいて中身を直接見ることはなかった。

自分が子どもの頃は「動物の祟り」があった。動物を殺したり痛めつけたり、不用意にいたずらを仕掛けたりすると、化けて出た動物に逆襲されるという世界観だ。親にも何となくそう教わった記憶があるし、幼い頃に触れた物語にもしばしばそういった題材があった。今はどうだろう。すっかり聞かなくなった。無くなってはいないと思うが、以前ほど広く共有されていない気がする。私自身もこういう感覚が薄れて久しい。

動物が殺されたり捨てられたりしたニュースへの反応を見ると「かわいそう」がほとんどだ。次に「制度への言及」など仕組みづくりの話。「地獄に落ちろ」系もあるがこれは祟りの主体がコメント主・人間なので、動物の祟りとはちょっと異なる。

たとえ力の弱い小動物でも、場合によっては手痛いカウンターを浴びせられてしまうという一種の「畏れ」が祟りを生む。猫の虐待死への反応を見るに、動物に対する「畏れ」というのは現代人の心から以前にもまして離れていっているように見える。代わりにあるのは不幸に遭った孤児を見るような「憐れみ」である。近年、野良猫は自然にあるものから人が何とかすべき社会問題・環境問題に変わった。道端に猫の死体があれば、その背後には必ずそれを引き起こした「人間」が想像される。猫は被害者であり、救うべきものとされる。対象が「人の手でコントロール出来る(すべき)もの」になると、祟りというのは消えていくのかもしれない。


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