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澄んだ水の中へ

桂浜水族館の館長がカワウソの赤ちゃんを「吸っている」ツイートが何日か前に話題になった。

桂浜水族館は高知県にある私営の水族館で、SNSを通しての広報活動に力を入れており、それにより客足を大きく回復させたという経緯がある。キャッチーな投稿がウケているが、ネット特有の浮足立ったノリがあるといえばある。そこへの反感も少なからずあるようだ。

ネットの世界には、うさぎや猫や犬のもふもふの身体に顔を埋めて吸うという「ペット吸い」のミームがある。このカワウソ吸いもそれになぞらえた行為だと思われる。

しかしこれはカワウソの赤ちゃんにとっては良くない接触で、またペット扱いを促す軽率で悪質な投稿だとして、一部で問題視する声が上がった。桂浜水族館は過去にカワウソの赤ちゃんを上手く育てられずに何匹か死なせてしまうこともあったらしく、そこについても改めて突かれることになっている。

これを受けて水族館側はお詫びの声明を発表。100周年を目指してこれからも頑張るという言葉で締めくくっている。声明に対してのリアクションも厳しい物がやや目立つ。

水族館側の悪ノリがあったのは確かだと思うが、これを徹底糾弾した先には何があるだろうと思う。批判の多くは動物倫理的な観点を引用して為されているが、動物倫理における最終的なゴールのひとつは「動物園・水族館の廃止」である。これは専門家が書いた本にもはっきりとそう書いてある。

そもそもの話として、本来の野生下の生態からはかけ離れた飼育環境しか提供できず人々の好奇心を満たすために晒し物にされている施設はそれ自体が動物虐待にあたるという。保護や研究といった道義をもってしてもだ。

動物倫理学においてはペットもまた最終的には無くなるべきものとしている。ペットを飼うというのは人間のエゴだ。長生き出来る快適な飼育環境を提供するとか、保護犬猫や里親のような慈善行為とて例外ではない。

このように動物倫理の主張というのは、動物を人の管理下に閉じ込め、欲望を満たす行いの全てをひっくるめて正しくない悪としている。はっきり言ってこれは世の中の実態にはそぐわない極論であると思う。しかし論理的には一貫した強度を持っている。

実態という意味では、何より今を生きる我々自身の意識は過去よりも随分と漂白されている。猫は室内飼いが当たり前とされて久しいし、犬なら首輪が批判の対象になることもある。十分な知識とお金を備え、ちゃんと長生きさせられなければ飼い主の資格が無いとされることもある。30年ほど前の世界なら「愛誤」などと揶揄されるような倫理規範を持った人間が、現在はかなりスタンダードに近いものになっていると思われる。動物倫理を時代精神の大きな流れとして見ると、本で書かれているような「極論」にゆっくりと近づいているのは確かである。

桂浜水族館へ厳しい目線を向けるのは動物好きな心優しい人が多いと見受けられる。しかし徹底して反省を促しクリーンさを求める先に待つのは、そんな人たち自身が動物を手放さなければならない世界かもしれない。現実の人間と動物の諸々の関係は矛盾に満ちているものだ。正しさに論理で対抗できる余地は非常に少ないだろう。

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