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本気かどうか、いつだって試されている

恐れを飛び越える
という話を先日書きました。

https://note.com/aromania/n/n6b9b3bed826d


思うのですが
この「恐れ」って

本気かどうか、試されている

ということでもあるなと
私自身は感じています。

この記事の中で

脳からの「悪魔の囁き」に抗う
言葉はひとつ

「それ本当?」

だと書きました。


それ本当?

脳への問いかけだ

というつもりで書きましたが


実は、魂からの問いかけでもあるなと
思っています

ホンマか。
ホンマなんか?


(あー、今、脳内で
懐かしい声が再生されました。
鶴光のオールナイトニッポン
ええか? ええのんか? 」)

・・・すみません、ふざけました😆



ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者ヴィクトール・フランクルの話を書きます。

「生きていくことに、もう何も期待が持てない」というある囚人の絶望の言葉に対して、フランクルは言います。

「私たちが<生きる意味があるか>と問うのは、はじめから誤っている、人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのだから」と。

その囚人には、彼のことを待っている一人娘がいたそうです。そして、娘の存在によって彼は生きることのかけがえのなさと責任に気づき、生きる勇気を与えられたといいます。

人生に対して何かを期待するのではなく
「自分は人生から何を期待されているか」

フランクルは

人間とは生きる意味を「問う存在」なのではく、人生から「問われている存在」

だといいます。

「人間誰しもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。しかしあなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない。あなたを待っている誰かや何かがある限り、あなたは生き延びることができるし、自己実現できる」


フランクルのような過酷な状況を私は想像し得ません。

ただ、生きていく中での苦悩は
人によって違っても

それぞれの人にとっては
過酷なアウシュビッツのような状況かもしれません。


恐れを感じた時、
それはお試しごとがきた時。

そんな時に
自分に問うこと。

本当に?
本当に、そうなのか?

この状況で私にできることはなんだろうか。

私もがんだと診断されたあと
「ホンマに生きるの?死ぬの?
どっちなん?」

と問われたと感じました。

私は「生きます、生きますーーー」
と叫びました。

あの時の問いかけが

どんなことも人のせいにせず
自分に寄せて問うてみる

その大きな覚悟につながっている
と感じています。

あなたの清きサポートでますますがんばれます٩( 'ω' )و サポートしてくださった分で見聞を得て、またおかえししていきます。